アラブの王族から山口組組長まで張り巡らされた人脈。田中清玄とは何者か
かつて昭和の時代、田中清玄という国際的フィクサーがいた。
戦前、非合法の日本共産党の中央委員長となり、武装闘争を指揮、治安維持法違反で逮捕された。11年を獄中で過ごすが、その間、息子を改悛させようと母親が自殺、これを機に共産主義を捨てる。
終戦直後、密かに昭和天皇に単独拝謁し、命を懸けて皇室を守ることを誓った。皇居に押しかけた共産党のデモに、ヤクザや復員兵を送って殴り倒させた。
その後は中東に乗り込み、アラブの王族や欧米の石油メジャーを相手に、石油獲得交渉を行う。資源の乏しい日本にいくつも油田権益をもたらし、巨額の手数料を手にした。山口組3代目の田岡一雄組長の親友で、対立するヤクザに狙撃され、危うく一命をとりとめた。
こうした揺れ幅の大きさから、生前は毀誉褒貶も激しかった。ある者は「愛国者」「英雄」と呼び、ある者は「利権屋」「裏切り者」と罵る。
これまで筆者は、現代史の真相を調べる中で、多くの米英政府の機密解除文書を読んできた。そこでしばしば、Seigen Tanakaという名前を目にした。これらの記録や関係者の証言を基に書いたのが、「田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児」(文藝春秋)だ。
そして、彼を単なる右翼の黒幕とするのは間違いであること、その波乱万丈の生涯が、じつは今の世界、21世紀を生きる指針にもなるのに気づいたのだった。
過去、わが国ではフィクサー、黒幕とされる者が何人かいた。そこで田中を異色たらしめたのが、その絢爛たる海外人脈である。
なぜ田中は名門ハプスブルク家当主と親しく付き合えたのか
石油権益で連携したアラブ首長国連邦の初代大統領ザーイドを初め、中国の鄧小平副首相、インドネシアのスハルト大統領らと個人的関係を築いた。そして30年以上に亘って親交を結んだのが、神聖ローマ皇帝の流れを汲む欧州きっての名門ハプスブルク家、その当主のオットー・フォン・ハプスブルク大公だった。