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 13世紀、ルドルフ1世が神聖ローマ帝国の皇帝に就いて以来、1918年に崩壊するまで、ハプスブルク家は多様な民族を束ねる王朝として君臨した。その領地はオーストリアからハンガリー、ルーマニア、また旧ユーゴスラビア、ウクライナ西部に広がり、首都ウィーンは欧州の主要都市として栄えた。

©The Otto von Habsburg Foundation

 その最後の皇太子オットーが生まれたのは1912年。帝国の崩壊で、幼くして両親と亡命を余儀なくされた。欧州各地を転々とし、第2次大戦では、亡命オーストリア人部隊を組織してヒトラーに抵抗した。

 戦後は欧州議会の議員になり、ソ連に支配された東欧諸国を支援した。また汎ヨーロッパ運動を通じて欧州統合に尽力し、まさに20世紀の歴史を体現した人物だった。

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 田中とは、欧州で開かれた自由主義者の団体モンペルラン協会の会合で知り合い、家族ぐるみの付き合いを続ける。田中の長男の俊太郎も、欧州に行く際、父の書簡を届けたことがあったという。

「一度、大公に、どうしてうちの父と親しく付き合うようになったのか訊いてみたんです。そうしたら、『非常に珍しい人だと思った』と。『まず、共産主義を本当によく知っている。そして中国でも、ベトナムでも、インドネシアでも、田中さんが共産党の話をすると、ほとんどその通りになっていった。東洋の島国で、政治家でも外交官でもないのに、どうしてそんなことが分かるのか、非常に不思議だった』って言うんですね」

 よく考えれば、これは不思議でも何でもない。

入江侍従長に「これは大事なので、陛下のお耳に入れて欲しい」

 かつて武装共産党を率いた田中は、ストライキや破壊工作を行い、共産党の手の内に通じていた。彼らが何を目指し、どういう戦術を取るか、手に取るように分かった。餅は餅屋というが、反共活動には元党員が適任なのだ。

 一方のハプスブルク家は、ポーランドやハンガリー、ルーマニア、ウクライナに大勢のシンパを持ち、それは情報収集のアンテナとなった。ソ連指導部の動向、欧州の政治家の誰がモスクワの手先か、どんな政治工作が行われているか、確度の高いインテリジェンスが手に入る。