謎多き「魔女」の素顔に迫る――。東京新聞論説委員兼編集委員の田原牧氏による「『私党』重信房子と日本赤軍」(「文藝春秋」2022年8月号)を一部転載します。

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 指定された部屋をノックすると、開かれた扉の向こうに彼女が立っていた。だぶっとした黒いタートルネックのセーターにツイードのコート。髪はゆるくパーマをかけていたような記憶がある。レバノンのベカー高原にあったアパートの一室。あのころ、レバノンはまだ内戦下にあった。

 5月28日、懲役20年の刑期を満了し、東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)から一人の女性が出所した。日本赤軍のリーダーだった重信房子(76)である。

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熱狂的に出迎えた支援者たち

 オランダ・ハーグでのフランス大使館占拠事件(1974年)で国際指名手配中の2000年11月、潜伏先の大阪府高槻市内で逮捕された。それから21年半。獄中で4回にわたる手術で9つの癌を摘出しながら、生き抜いて自由の身となった。

 出所には数十人の支援者やメディア関係者らが駆けつけ、近くの公園で会見が開かれた。彼女の背後には「WE♥FUSAKO」の横断幕が広げられ、報道陣から母親を守るように一人娘のメイが寄り添った。

 テレビ画面からは、帽子に遮られて顔がよく見えなかったが、流れてきたハスキーボイスは昔と変わっていなかった。

「かつてのあり方を反省し、かつ、日本をより良く変えたいという願いと共に謝罪の思いを、私自身の今日の再出発に据えていく所存です」「社会に戻り、市民の一人として、過去の教訓を胸に微力ながら何か貢献したいという思いはありますが、能力的にも肉体的にも私に出来ることは、ありません」

 記者たちに配られた彼女の「再出発にあたって」という挨拶文にはそうある。集まった記者たちの多くは娘よりも若い世代で、映像からははしゃいだ雰囲気が伝わってきた。

 それから一週間後、彼女が通った明治大学駿河台校舎(東京都千代田区)近くのお好み焼き屋で、1960年代をともにした約30人の活動家仲間たちが歓迎会を開いた。「彼女は少しだけビールを啜っていた。顔色は良かった。話といっても、お互い年取ったなあなんてことばかり」。参加した一人はそう笑った。

 支援者や旧友に囲まれた穏やかな時間が流れている。長い異国での活動と獄中生活から生還したのだから当然だろう。それでも、何かが欠けている。忘れ物とでもいうべきか。

 彼女の口からは亡くなったり、いまも獄中にいる元同志たちへの言及がなかった。有期刑だった重信と違い、そのうち二人は無期刑で服役している。ひと昔前と違い、現在の無期はほぼ「死ぬまで」を意味する。解散前から日本赤軍と袂を分かっていたとはいえ、彼らは「兵士」で、彼女は「司令官」だった。

 日本の市民社会に戻った元兵士たちの多くは姿を現さず、距離を置いて沈黙していた。日本赤軍の指導者。彼女の名を世に知らしめた、その最大の事実を出所の喧噪はかき消しているかのように見えた。

天性の人たらし。その才能はオルグでも生かされた

 重信が日本赤軍を率いるようになるまでの足跡については、彼女自身の手記や評伝などでたびたび紹介されている。

 敗戦の年に、東京都世田谷区で四人きょうだいの次女として生まれた。父は戦前、井上日召が主導した右翼団体「血盟団」とつながりを持つ人物で、食料品店などを営んでいたが、その高潔な性格からか商売っ気はなく、家計は厳しかったという。重信は幼少時から文学少女だった半面、高校時代には渋谷で不良を装い、高校卒業後はキッコーマンに就職した。19歳で教員を目指し、明大文学部の二部に入学する。