アラブ諸国の元首クラスと会える立場に
偶然、目の前に転がってきたボールを拾うのか、他人の物と黙って通り過ぎるのか。それが運命の分かれ道になることがある。
重信に「国際テロリスト」の肩書きを与えたのが、1972年5月にイスラエルのロッド国際空港で起きた「リッダ闘争(テルアビブ空港銃撃戦事件)」である。奥平を含む日本人青年三人が治安当局と銃撃戦を展開し、巻き添えになった観光客ら計26人が亡くなった。
奥平は射殺され、京大生の安田安之は手榴弾で自爆したが、鹿児島大生の岡本公三は拘束(現在はレバノンに亡命中)された。
日本赤軍の看板として語り継がれる事件だが、重信にとっては「転がってきたボール」だった。なぜなら、この事件への重信や赤軍派の関与はないに等しかったからだ。
どういうことか。1971年の冬、パレスチナ勢力の拠点だったレバノンの首都ベイルートに渡った奥平と重信は、左派組織PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の門を叩く。奥平はハイジャック作戦などを遂行していた非公然の海外作戦部局に、重信は広報部門に振り分けられる。奥平は訓練を受け、PFLPと決死作戦の立案、準備に入っていく。
奥平は出国直前、重信の要望で赤軍派に名義を貸した。だが、それは形式にすぎず、この作戦でも呼び寄せたのは京都パルチザンの仲間たちだった。パルチザンは全共闘の生き残りで、赤軍派も含めた前衛党主義と一線を画すアナーキーな集団だった。彼らは労働と闘争をともにする無数の小集団(5人組)を基礎にした革命を夢想していた。
リッダ闘争はその国際版で、無名の国際義勇兵の作戦として策定された。それゆえ、声明文を用意せず、安田に至っては身元を隠すため、自らの顔を吹き飛ばしている。
京都パルチザンの一人で当時、現地で作戦準備に携わった檜森孝雄(2002年に焼身自殺)は遺稿などをまとめた『水平線の向こうに』で「(奥平が)赤軍派の路線やスローガンを口にしたことは一回もなく」と述懐している。同時期に連合赤軍事件で拘束されていた青砥幹夫も事件の一報を聞き、「赤軍派の匂いがしないと思った」と語っている。
作戦が極秘で進められる中、当時の重信は映画監督の若松孝二や足立正生が企画したパレスチナ闘争の宣伝映画の制作に協力したり、ベイルートの日本人社会ではアイドル的な存在になっていた。娘を懐妊したのもリッダ闘争が実行されたころである。奥平らと重信の間には、その日常のみならず、精神面でも大きな隔たりがあったと推察される。
やがて作戦は遂行された。欧米諸国や日本の非難とは対照的に、アラブ諸国は絶賛した。だが、アクシデントが起きた。岡本の拘束である。「無名」の構想が崩れた。
足元にボールが転がってきた。実行者たちの遺志を尊重するのか、赤軍派の作戦と宣伝するのか。重信は後者を選んだ。後に彼女はPFLP幹部の助言に従ったと説明したが、その人物はすでに亡くなっている。
アラブ民衆の歓喜の熱狂に魅惑されたのだろうか。この事件は彼女に特別な地位を授けた。リッダ闘争という錦の御旗が彼女をアラブ諸国の元首クラスとも会える立場に押し上げたのである。1個のボールが一介の女性活動家に魔力を与えた。
「彼女は理論家じゃない」
「日本赤軍は共産同赤軍派の延長線上に見られがちだが、全くの別物。思想も理論も赤軍派とは違う。日本赤軍は重信が創った党。ただ、彼女は理論家じゃない。理論や思想ではなく、彼女の何かに吸い寄せられた集団だ」。すでに他界した元赤軍派幹部は生前、そう言い切った。
リッダ闘争直後、「アラブ赤軍(後の日本赤軍)」として犯行声明は出したものの、その組織実体は乏しく、残っていたのは重信と事件で帰国できなくなった京都パルチザン系活動家の丸岡修(2011年に日本で獄死)だけだった。
しかし、次第に雑多な人びとが集まってくる。重信らが渡航する以前から難民キャンプでボランティアをしていた医療関係者ら、欧州で脱走米兵の亡命援助をしていた旧ベ平連系の知識人ら、若松プロの宣伝映画「赤軍―PFLP世界戦争宣言」の上映隊グループなどである。
そして、日本赤軍は1973年7月の日航ジャンボ機乗っ取り事件(ドバイ事件)を皮切りに、シンガポール製油所襲撃事件(74年1月)、ハーグ・フランス大使館占拠事件(74年9月)、クアラルンプール米大使館領事部、スウェーデン大使館占拠事件(75年8月)、ダッカ日航機乗っ取り事件(77年9月)と、立て続けに作戦を展開していく。クアラルンプールの事件では五人、ダッカの事件では6人が日本の獄中から超法規的措置で釈放され、組織に合流した。
重信はヒロインだった。屈指の国際テロ組織のリーダーと叩かれる一方、1970年代から80年代にかけて、日本から竹中労や中山千夏、立花隆をはじめ、数多くの著名人や活動家らが彼女との面会を求めて渡航している。中国での27年間の幽閉後、1980年に帰国した元共産党政治局員、伊藤律も渡航を望みつつ、彼女と文通した一人だった。新左翼党派の派遣団や巷の不良少年までが海を渡った。