入学と前後して学費闘争での学生処分に抗議する闘いに共感し、それを契機に学生運動に加わる。所属セクトは当時、三派全学連(新左翼系)の一翼を担った共産主義者同盟(ブント)だった。
数年後、ベトナム反戦・全共闘運動が全国を席巻したが、1969年1月の東大安田講堂「落城」を機に運動は退潮に向かう。運動の行き詰まりからブントは分裂し、彼女は赤軍派に属することになった。
「重信の役回りは秘書。当時の赤軍派は塩見(孝也、議長)、田宮(高麿、後の「よど号」グループリーダー)、堂山(道生)の3人を中心に回っていて、重信は堂山さんの秘書だった」。当時を知る元赤軍派メンバーの一人はそう振り返った。
「頼れる人という印象だった。カネがなくてね。窮地になると、彼女がどこからかカネを引っ張ってきた。大島渚(映画監督)や松田政男(映画評論家)も彼女の大ファンで、新宿にあった『ユニコーン』という店で一緒によく飲んでいた」
天性の人たらし。彼女をそう評する人は少なくない。その才能はオルグでも生かされた。「当時、隆盛だった『リブ』に加わるようなタイプじゃない。逆だね。重信は自分の『女』を利用する。だから『魔女』とも呼ばれた。時代もそんな振る舞いを後押ししていた」。後年、何人かの男たちが「オレこそが重信の本命の恋人」と吹聴していた。催眠術から抜けきれなかったのだろう。
大菩薩峠からパレスチナへ
学生デモは素手からヘルメットとゲバ棒へ。それはすぐに火炎瓶と鉄パイプに取って代わられたが、警察力の増強はそれを上回った。軍事的な突破を果たすべく、赤軍派は「前段階武装蜂起」を掲げる。だが、その準備段階の訓練で壊滅的な弾圧(大菩薩峠事件)を受ける。
前出の元赤軍派メンバーはこう続けた。「赤軍派の国際根拠地論はそんな苦境からひねり出した方針だった。海外の革命国家で訓練を受け、日本に戻ってくる。最有力の候補地はキューバ。一握りの集団で革命を成就したんで、自分たちの姿と重ねた。キューバから戦艦で帰ってくるなんて話もあった。ただ、接触したキューバ大使館からは『空想的すぎる』と一蹴されたな」
それでも赤軍派はこの路線に従って、1970年3月に「よど号」ハイジャック事件を起こす。だが、直前に議長の塩見は逮捕され、他の幹部も逮捕、脱落が相次いだ。
残されたのは後の連合赤軍事件で中心人物となる森恒夫、重信ら準幹部だけだった。森は国内の武装闘争に舵を切ったが、重信は国際根拠地路線の継続を選び、袂を分かつ。
選んだ行き先はパレスチナだった。なぜ、パレスチナだったのか。当時、『世界革命運動情報』誌の発行に携わっていた松田政男は生前、「オレの影響だ」と話していたが、経緯は定かではない。
ただ、同伴者はすでに赤軍派にはいなかった。白羽の矢が立ったのが、京大全共闘出身の奥平剛士だった。奥平は当時、京大助手の滝田修(竹本信弘)らをイデオローグとした「京都パルチザン」の一員だった。奥平は重信からの提案を承諾。警察からマークされていた重信の改名目的で、二人は婚姻届を出している。