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なぜ、人びとはこれほど日本赤軍に魅せられたのか

 なぜ、人びとはこれほど重信や日本赤軍に魅せられたのか。なにより彼女の「人たらし」という天賦の才覚が人びとを誘った。

 アジビラ調の文言が並びがちな新左翼の文書の中で、彼女が書く日本赤軍のそれは特異だった。1973年11月に発表された「アラブよりの招請状」には「やくざで底抜けにやさしかった多くの仲間たち、どうしていますか? キャンパスは、あたたまっていますか?」「街角は私たちの(出会いの)ために待機していることでしょう」とある。

 こうした言葉に誘われ、海を渡った人は少なくない。渡った先で「ちょっと前に、あなたが来る夢を見た」と告げられた人もいた。日本のシンパらへの手紙には、ベカー高原の草花を押し花にした手製のしおりが添えられていた。

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 時代背景もあった。そのころには「叛乱の季節」は終わり、新左翼運動は100人以上の若者が落命した陰惨な内ゲバの陥穽にはまっていた。

 そうした中で「口先でいくらマルクス・レーニン主義をいおうと、団結しえず、分裂や内ゲバをくりかえすのは、その根拠に敵階級の思想を反映した立場があるからです」(『団結をめざして―日本赤軍の総括』)と断罪する日本赤軍は運動圏の希望の灯だった。

「(私たちは)死を覚悟することによって日和らない自己を確立するという程度の決意主義を根深くもっていました」(同)。こうした凄みが、ますます彼女と組織を神格化した。

私の目の前に現れた小柄な女性

 ノンセクト活動家だった学生時代、老舗の新左翼党派にキャンパスを追われた経験のあった筆者も1980年代半ば、彼らの言葉に惹かれて渡航した一人である。

 PFLPを介し、ベカー高原のアパートで彼女と対面した。最初、目の前に現れた小柄な彼女に「すみません。重信さんはどこですか?」と尋ねてしまった。勝手に膨らませていたイメージが、彼女を大柄な人と思い込ませていた。

「私たちのころは学生運動をしていないとモテなかったけど、いまみたいな時代にどうして活動なんかしてたの?」。打ち解けた語り口に戸惑った。その後、筆者が大学の後輩だったことで「『味一(大学近くにあったラーメン屋)』のおばさんは元気?」と聞かれた。

「私たちは理論家がいない分、現実から始められた」「銃を扱うほど銃への幻想がなくなり、非暴力に近づける」「日本の豊かさって消費させられているだけではないの?」。そんな言葉を記憶している。最後に「あなたを『一本釣り』する気なんてない。日本で何とか頑張って。私たちは支援する側よ」と言われ、数時間の会話は終わった。帰り際、アラブの工芸品である寄木細工の宝石箱を手渡された。

 彼女との面会はフランクな空気に包まれていた。ただ、小さな違和感があった。それは彼女の傍らにいたメンバーらしき男性の振る舞いだった。まるで執事のように無言で恭しく彼女にかしずいていた。

 その違和は20年近く経った後に氷解する。組織内には筆者が感じた優しげなイメージとは対照的な現実が潜んでいた。(文中敬称略)

東京新聞論説委員兼編集委員の田原牧氏の「『私党』重信房子と日本赤軍」は、「文藝春秋」2022年8月号と「文藝春秋 電子版」に掲載されています。

文藝春秋

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「私党」重信房子と日本赤軍