「大公本人は、非常に気さくな方で、子供たちも、何か特別な教育をしているわけでもないんです。ただ、私が国際情勢を質問した時に、『とにかく、毎日、世界地図を見なさい』と。『今は異なる国でも、少し遡ると、歴史的に同じ国に属していた。同じ領土だったのに、紛争があり、無理やり分かれているところもある。そういうのが、見えてくる』と」
第2次大戦後、ソ連の支配下に取り込まれた東欧では、しばしば離脱の動きも起きた。1956年のハンガリー動乱、68年のチェコスロバキアの「プラハの春」で、いずれもソ連軍の戦車によって弾圧された。
プーチンを警戒し始めたオットー大公と田中
この永遠に続くかもしれない欧州の分断、その間もハプスブルク家の末裔は、かつての欧州の地図を見つめ、過去から未来に思いを馳せていた。
長年の交遊を通じて、田中も、そうした思考を体得したようだ。国際情勢の大きな変化でいくつも予言を行い、適中させている。その一つが、1980年の「1990年、ソ連は破滅する」という談話だ。
その前年、ソ連はアフガニスタンに軍事侵攻し、親ソ派の傀儡政権を樹立、国際的な非難を浴びた。その結果、アフガニスタンを含め、全世界のイスラム教徒を敵に回すだろうという。
「そして、1990年にはソ連もまた、東欧諸国の解放運動の激化と、中近東諸国と国境を接する6つの自治共和国の民族的なイスラム独立運動の展開に直面して、破滅の道を歩むことになろう」(「週刊文春」1980年1月17日号)
東欧や中央アジアで民主化、自治拡大の要求が高まり、ついにソ連が崩壊したのは1991年だった。
そして、その直後からオットー大公と田中は、揃ってロシアのある人物の危険性を警告し始める。その残虐で冷酷な性格は、一旦権力を握ればとてつもない害を生むかもしれない。以来、その人となりや言動を追い始めた。
冷戦末期、東ドイツのドレスデン駐在のKGB(ソ連国家保安委員会)将校で、後に連邦保安庁長官となり、2000年にロシア大統領に就く、ウラジーミル・プーチンである。