田中は、年に数回、西ドイツやスペインにある大公の自宅や別荘を訪れ、国際情勢で意見を交した。その一部は、帰国後、旧知の入江相政侍従長を通じ、「これは大事なので、陛下のお耳に入れてほしい」と昭和天皇に届けられた。
武装共産党の元委員長が、天皇家とハプスブルク家のパイプ役を担ったのだった。
1962年3月、オットー大公は、田中の招きで、レギーナ夫人を伴って初めて来日した。この時、「国際政治研究家」として天皇に拝謁したが、滞在中のあるエピソードを田中が明かしている。
1960年代にはベルリンの壁崩壊、冷戦終結、ソ連の崩壊が見えていた
大公夫妻を囲んで、友人で後の新日本製鐵副社長の藤井丙午、文藝春秋社長になる池島信平らと会合を持ったという。
「その時、藤井丙午や池島信平らが大公に『汎ヨーロッパ運動というが、どこからどこまでをさすのか』と質問した。『ウラルから大西洋までだ』と大公が答えられると、『しかし、その間には共産圏が含まれていますが』との重ねての質問だ。それに対して大公はこう言われた。
『それらは一時的な現象にすぎない。いずれこれらは雲散霧消するだろう。欧州には求心力と遠心力の二つの力が働いている。ある時は求心力が強く、ある時は遠心力が強い。いまは求心力に移りつつある』
どうです。それから30年たって、共産圏は本当に雲散霧消したではありませんか。この息の長さと、透徹した泂察力を日本人は持てますか」(「田中清玄自伝」)
当時は東西冷戦の真っ只中、いずれソ連はなくなると言っても一笑に付されただろう。だが、その後、「ベルリンの壁」崩壊、冷戦終結、ソ連解体と大公が予見した通りになったのは、歴史が示す。
これについて、俊太郎も、あるエピソードを覚えていた。父の書簡を携え、西ドイツのオットー大公の自宅を訪ねた時だ。れっきとした貴族の家系なのに、近所のレストランで誕生会をやるなど庶民的な暮らしぶりだったという。