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なぜ徳川家康は弱くても天下人になれたのか? “本当の理由”を歴史学者と徳川家19代当主が暴く

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 磯田 家康のたてた徳川の天下は260年もの平和を保ったわけです。私は家康が暮らした東海地方に一度は住んでみたいと考え、4年ほど浜松に住んでみました。家康が最も長く拠点にし、静岡にも岡崎にも等距離で行ける町です。

 実際に住んでみると、「弱者としての家康」を思い知らされました。家康入城時の浜松(引間(ひくま))城は小さい。北方の武田軍を防ぐため急ごしらえで掘った堀と土塁だけの掻き揚げ城です。家康が生きた時代の感覚では、浜松は全くの他国でした。地元(遠江)の侍たちは、三河から来た“よそ者”の家康に付こうか武田に付こうか、じっと見定めていたのです。家康はよくこんな厳しい環境でやっていけたな、と思いました。

 徳川 そうでしょうね。

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 磯田 住んでみて、それまでもっていた「圧倒的に強い徳川」という思い込みがガラガラと崩れました。では、そんな「弱っちい」家康と家臣が、なぜ、どうやって、天下を握り、永続政権を樹立できたのか。そういう目で史料を見るようになって、『徳川家康 弱者の戦略』という本に繋がりました。

『徳川家康 弱者の戦略』(小社刊)

家康は「狸」ではなかった

 磯田 これからは、家康の人物像についてお話ししていきましょう。早速ですが、家広さんは「家康公」をどんな人物とみていますか。

 徳川 家康の実像は、私も「どうする家康」や、磯田さんが話された弱っちい姿に近かったと思っています。家康というと「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という歌が有名ですよね。ただ、これは「ジタバタせずに、地道に働けば良いことがある」と、江戸時代の民衆を教化するためのものだと思います。同様に、これまで語られてきた家康公についてのエピソードのほとんどは、そんな教育的な意味合いが強かった。

 ドラマも同じです。滝田栄さんが83年の大河ドラマで演じた家康はあまりに立派だったので、当時の私なんて外に出たらうつむいて歩いていたほどでしたよ(笑)。それと比べると、松本潤さん演じる家康は、情けなさが非常に心地よい。「この姿の方が正確かも知れない」と思いたくなるわけです。

 磯田 家康は、これまで「狸おやじ」というイメージで語られてきました。狸は、死んだふりで相手を騙す狡猾な動物とされていました。家康は、狸のように権謀術数を弄して敵を陥れる嫌なお爺さん、というわけです。

 徳川 私は、これも意図的に作られた家康像だろうと思っています。家康は、当時にしてはとても長生きで、75歳まで生きました。あの時代、そもそも「おやじ」は珍しかったんです(笑)。

 あと、狡猾だというのは、豊臣贔屓の人が言っていたのではないかと思いますね。