大河ドラマ主人公・家康が“生涯最大の危機”から学んだこととは? 歴史学者・磯田道史氏の人気連載「わが徳川家康論」から、信玄との関係から家康を読み解く第3回「武田信玄と三方ヶ原」(「文藝春秋」2023年2月号)を一部転載します。

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家康の長い生涯で「最も苦しかった時代」

 この「わが徳川家康論」では、第1回は家康誕生、第2回は桶狭間の戦いと信長との同盟を軸に、徳川家康という人物を論じてきました。今回は家康の長い生涯でも、最も苦しかった時代、最強の敵といえる武田信玄との対決を見ていきたいと思います。正確に言えば、武田晴信が出家し、武田家を出てからの法名が信玄ですから、「武田の信玄」もしくは単に「信玄」という呼び方で話を進めていきます。

 武田抗戦期は、家康にとって苦難の季節であり、同時に、大きく成長を遂げた時期といえます。何故なら、それまで、家康がやっていたのは、今川の手伝い戦か“三河ローカル”の低レベルの争いでした。ところが桶狭間合戦の約1年後、今川氏真からの独立運動を始めると、小さな領土争いを超え、信玄のような全国区の強者と対峙し、その勝敗が日本中の外交に波及するようになりました。

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 家康が今川から独立の動きをみせると、時の将軍足利義輝は周辺の大名に「駿州三州の戦争が始まった! 関東への通路が不便になる。何とかせよ」。そんな御内書を送っています。駿河・三河戦争が始まったため、周囲の大名に停戦外交の指示を出したのです。きっと家康を止めたい今川から義輝への働きかけがあったのでしょう。後に詳述しますが、この駿河・三河戦争に、甲斐の武田が参入してきます。しかも、それが信長の畿内進出に連動して、日本全土の時代を動かしたのです。

磯田道史氏 ©文藝春秋

 近年、この政治過程は、丸島和洋さん・平山優さんなどの戦国史家が、論文・図書を刊行されています(丸島和洋「松平元康の岡崎城帰還」『戦国史研究』七六、平山優『徳川家康と武田信玄』)。戦国史は半年単位で最新学説が出る活況で、歴史好きにとっては非常に楽しい状況です。ただ、学術研究は、史実の細部にわたる厳密な検証です。一般の読者が一読しても、なかなか難解な用語もあります。ここでは、そうした最新研究の流れを汲みつつ、わかりやすい言いまわしで説明してみます。

武田家はなぜ強いのか?

 そもそも武田家とは、どういう家か。そこから解説しましょう。武田家は自他ともに認める武家の名門です。そのルーツは鎌倉以前に、さかのぼります。

 源頼朝が鎌倉幕府を開いたので、源氏の中でも河内源氏が源氏の本流として、カリスマ化されていきました。河内源氏の筆頭は源頼義の長男の八幡太郎義家(源義家)です。前九年・後三年の役など東北で暴れ回りました。次男は目立たない賀茂次郎義綱(源義綱)。三男が武田の祖・新羅三郎義光(源義光)です。三井寺の新羅明神で元服した三男だから新羅三郎です。武田家は、この新羅三郎の系統の「本家」と目されていました。

 義光は、常陸国(現在の茨城県)の有力な平家の豪族の娘と結婚し、今のひたちなか市にある武田という村落に居を構えます。これが武田家のルーツなのですが、この時点では弱く争いに敗れ、甲斐に移されてしまいます。とはいえ、この武田家は新羅三郎の家として、御旗という日の丸の旗と、楯無という鎧を持っていました。清和源氏には「源氏八領」という8つの鎧があり、楯無はその1つです。その旗と鎧をもって甲斐の国に入ると、その威光もきいて、武田家は次第に国主にのし上がります。甲斐に入ると、武田家は軍馬「甲斐の駒」の産育にむく火山性土壌の上で強くなります。強すぎて、頼朝に警戒され粛清されたほどです。それでも甲斐国守護の武勇の大名として戦国にいたります。