さらに見落とせない要素は、信玄が多くの軍書を読み、高度な軍事理論の持ち主だったことです。名門の武田家の御曹司として、信玄は、当時の武将のなかでも高い教養を備えていました。六韜三略(りくとうさんりゃく)や孫子といった中国の兵法書や史書をよく研究しています。当時、中国の軍書の研究でレベルが高かったのは、やはり信玄の甲斐と、多くの史書、医学書などをコレクションしていた直江兼続のいた越後の上杉家・安芸の毛利家でしょう。
もうひとつ、武田の強さは高い築城技術にありました。甲州式の築城として知られていますが、地形を巧みに生かした山城づくりや、丸馬出しと呼ばれる入口の構造など、きわめて強固な要塞を築くのです。私は「武田の不可逆性」と呼んでいますが、一度、武田に領地を取られると、平地でも静岡県にある田中城のように、難攻不落の城が建てられ、侵略された側は容易に奪還できなくなります。国境線地帯に築かれた城を「境目の城」といいますが、この築城技術が武田はとても高かったのです。たとえるなら、武田は胡桃です。外側がきわめて堅牢に出来ていて、なかなか割ることができない。しかし、弱点もありました。外側の殻が破られて、内側に侵入されると意外ともろい面がありました。
信玄の家康評は「寝返った男」
こうして戦国武将の激戦区、中部ブロックでは、長きにわたって甲斐の武田、駿河の今川、相模の北条の三氏が和睦と戦争を繰り返していました。そこに越後統一を成し遂げた上杉景虎(謙信)が加わり、尾張をほぼ掌握した織田信長が桶狭間で今川義元を打ち破りました。そして、三河の家康が今川に見切りをつけ、信長と同盟を結んだのです。これが永禄3〜5年(1560〜1562年)あたりの状況でした。
この時点では、信玄は今川と同盟を結んでいましたから、信玄からみた家康は、桶狭間を機に今川の手下から織田の手下に寝返った男、という認識だったと思います。最近の研究によると、信玄の手紙をみると、家康を「三河殿」とか「三河守殿」ではなく、単に「岡崎」と呼び捨てているそうです。つまり、家康を、三河の支配権を確立した、独立した国主としてはみなしていないわけです。かなり後になっても、信玄が家来にあてた手紙の中にも、「家康はもっぱら信長の意見にしたがっている人物だ」と書かれています。信玄は家康を対等の交渉相手とはみなしていませんでした。
ここは重要な点です。信長は家康に無理難題も押しつける厄介な存在ではありますが、一貫して、家康を対等の同盟相手として扱い、家来扱いはしていないのです。信長は、家康が三河から遠州そして駿河へ勢力を伸ばすのを終始一貫して支持していました。
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歴史学者の磯田道史氏の連載「わが徳川家康論」の「第3回 武田信玄と三方ヶ原」全文は、「文藝春秋」2023年2月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されている。
わが徳川家康論 ③武田信玄と三方ヶ原