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なぜ信玄は「家康を呼び捨て」だったのか?《大河ドラマ主人公を磯田道史が徹底解説》

なぜ信玄は「家康を呼び捨て」だったのか?《大河ドラマ主人公を磯田道史が徹底解説》

2023/01/15
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 河内源氏の三兄弟のうち、長男・義家の系統は、頼朝─頼家─実朝と三代の鎌倉将軍を出しますが、そこで「断絶」です。次男の義綱の系統からも有力な武家は出ていません。それで武田家は「我々は新羅三郎直系。武家の棟梁たりうる名門」の意識を持っていました。

 しかし、甲斐武田家には弱点がありました。それは経済です。甲斐は山岳地が8割を占める山国なので、耕作に適した平地が少なく、川の流れも激しく、頻繁に水害が起きます。こうした土地には強い大将が求められます。まず大きな治水工事を行うリーダーシップ、そして外部と戦って穀物や資源を獲り、狭い縄張りを拡げる軍事的リーダーです。

武田信玄

 その期待に最も応えたのが、武田晴信、のちの信玄でした。晴信は21歳の頃には有力家臣たちと謀って、父・信虎を甲斐から追い出し、権力を握りました。

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 戦国大名は、家康、信長がいた中部地区は、島津らがいた南九州と並び、高校野球でいえば強豪校がひしめく激戦区だったといえます。そのなかでも最強とされていたのが、甲斐の武田軍です。

 なぜ中部、南九州、次いで東国に強豪の戦国大名が集中したのでしょうか。この地域は京都に近い近畿ほどお寺や神社や住民自治(惣)の抵抗が強くありません。それで、年貢や家屋税(棟別銭)が取りやすいのです。また、土が関係しています。黒ボク土という火山性の土壌が分布する地域で、牧畜、ことに馬産に適しているのです。狩場でもあります。武を「弓馬の道」というように、鉄砲が伝来するまで、武力の核は、弓であり、馬でした。馬に乗り、矢を放つ狩猟は、武士必須の軍事訓練でした。馬産地が近く、狩猟文化が濃い土地は、戦闘力の高い戦国武将が生まれやすい「土壌」でした。しかも、火山のせいで金銀鉱山のおまけがつきます。そんな土地では、強豪同士の熾烈な戦闘の繰り返しで、戦場でのノウハウも蓄積されましたから、戦国大名が共進化を遂げて、ますます強くなっていきました。それが甲信越、北関東、そして東海といった地域だったのです。富士山や阿蘇山が見える所は戦国大名が強いのです。

きわめて優れた「偵察・警戒」「築城技術」

 では、信玄率いる武田軍団の強さとはどういうものだったのか、具体的に見ていきましょう。

 武田といえば「騎馬軍団」のイメージがありましたが、武田が他の武将と比べて超絶した騎馬隊を持っていた史実は見つかりません。甲斐が馬産地だったのは事実ですが、騎馬隊は後世のフィクションの影響であり、最終的には、黒澤映画「影武者」がつけたイメージです。

 武田軍の明らかな長所は、まず物見のレベルが高い点です。偵察、警戒がきわめて優れていました。これは甲斐、信濃といった山岳部での戦闘経験で培われたものでしょう。山岳は地形が複雑で伏兵を仕掛けやすく、さらに狩猟も盛んです。狩猟は獲物の居場所をしっかり見ておく必要があり、獲物の移動経路も周到に予測しなくてはなりません。世界史的に見ても、スイス、フランスのガスコーニュ地方などの山岳地帯は、古くから多くの傭兵を輩出しています。情報収集という意味では、透破(すっぱ)と呼ばれる忍びの活用も有名です。地理の把握に勝り、上杉謙信など強敵との戦いで鍛えられた追撃の速さ正確さも特筆すべきものでした。