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山咲 テレビ東京で『たけしの誰でもピカソ』という番組がありました。そこで各界の貴公子を特集する企画があって、「漫画界の貴公子」ということで出てくれませんか?と言われて。

 5人くらいの中の1人で、ほかの皆さんが自前でタキシードを着ている中、私だけが素肌にGジャン、ホワイトジーンズで出たんですよ。そこで私がオネエ言葉で話していたら、今田耕司さんが「君は貴公子じゃなくて大和撫子やんか」ってイジってくださって。それをきっかけに太田プロダクションの広報のマネージャーさんから声をかけられて、事務所に入ることになったんです。

あれよあれよと「売れっ子タレント」に

――事務所に入ってからすぐに仕事は決まったんですか?

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山咲 太田プロダクションに入ることが決まった2001年の5月に、どういう仕事をしていきたいのかを話し合ったりして、事務所でご挨拶をさせていただいて、そこで当時の部長の方に「年末あたりに深夜から始めて、来年の春くらいから少しずつテレビに出られるようになったらいいね」と言われたんです。

 でも、私は300のオーディションに落ちているし、そんなことになるはずはないって思っていたんです。それで、お家に帰ったら事務所の方から電話があって「『(踊る!)さんま御殿!!』決まったよ」って言われて。

――いきなりですか!

「10代、20代前半なら調子に乗れたかもしれないけど…」©平松市聖/文藝春秋

2~3ヶ月目ぐらいでスケジュールが真っ黒に

山咲 えっ、ちょっと待って、無理無理、ってなったんです。でも、それで『さんま御殿』に出させていただいて、その次に『THE夜もヒッパレ』に呼んでいただいてちょっと歌を歌ったら、リハーサルのときに制作会社の社長さんたちがバーッて降りてきて「セミレギュ(セミレギュラー)決定!」って言われて。えっ、怖い怖い、何なの!?って。

――そのときは嬉しいというよりも怖いという感覚だったんですか?

山咲 10代とか20代前半だったら調子に乗ったりしたのかもしれないんですけど、私は30過ぎで、大人も大人ですから。その後も『夜もヒッパレ』の制作会社さん(株式会社ハウフルス)がやっている『チューボーですよ!』『タモリ倶楽部』『どっちの料理ショー』とかがどんどん決まっていって。

 あとは『笑っていいとも!』の月1レギュラーにも選ばれたりして。2~3ヶ月目ぐらいでスケジュールが真っ黒になったという記憶があります。

記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。