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働いていたスナックが焼失、カード詐欺に手を染め…「自分の居場所を守りたかった」女性(40)が最後に“たどり着いた場所”

ロバート キャンベルが『黄色い家』(川上未映子 著)を読む

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黄色い家』(川上未映子 著)中央公論新社

 川上未映子さんの小説にはページ数と、読んで感じる「速さ」との比例関係は存在せず、むしろ、ストーリーが進むほどに目と指はきびきびと動く。長編作品ほどに、錫(すず)の酒器に小さな模様をトントンと打刻するごとく捲りの速度が軽快に感じられ、心地よい。

 主人公・伊藤花は、40歳。中流とは言えないが一応安定した生活をしているところへ、ふとしたきっかけで封印していた20年前の記憶が蘇る。中学3年から、金運が上がると信じて内装を黄色に塗った家=アジトに身を置くまでの顛末が丁寧に表出される。のっけから社会資本というものとは無縁の場所、貧しい家庭に生まれ育った人生を一心にたぐり寄せる形で花の語りは進む。

 不在がちな母親と一緒に暮らす東京郊外の文化住宅は、狭く暗い。空気さえ充分取り入れることができない。ある時には、押しかけてきた母の元恋人が、冷房が効くからと花の部屋に居座ったこともあった。その部屋は「四方を建物に囲まれているせいで、窓をあけても隣のコンクリート壁しかみえず、光はほとんど入ってこな」い空間であり、まるで幼い子の心を映す鏡のような情景になっている。

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 作者は「欠乏」を描くことにおいて他の追随を許さない名手である。思い出すのは近作『夏物語』冒頭の一文。大阪から上京して四苦八苦している語り手だが、「貧乏」の程度を見分けるコツについて独白する。「貧乏とは窓の数。窓がない、あるいは数が少なければ少ないほど、その人の貧乏がどれくらいの貧乏だったのか、わかることが多いのだ」。幼い頃のわたくしの経験に照らしても、これは明察だ。「窓」は川上作品の背景をなす重要なモチーフである。

 母の元を離れた花は、母の知人だった黄美子とスナック「れもん」を開店。友人の蘭や桃子と一緒に働き、4人で一軒家に住む。だが順調だった「れもん」が火事で焼失、花は3人に内緒でカード詐欺に手を染めていく。「金を稼いで自分の家を守る」ために。やがて3人も加えた小さな窃盗団は、花の才能と勤勉さで大きな稼ぎを上げていく。花にとって自分が息をつけ、安全にいられる場所を見いだして守ることが、人生における最大、かつ唯一ぶれのない集約点となっている。世代を超えた貧しさの中で心は疲弊する。自分が占める空間がどれくらい開かれて、風通しがよいか。自分がかき集めたわずかな金を奪われないでいられるか。それらが重低音のように彼女の人生を流れているのである。

 花をめぐる物語の最後の章は「黄落(こうらく)」。回想から戻った、2020年の夏。コロナ禍で街は閑散としていて「6月の逃げ場のない重く湿った空気が、あらゆる隙間から流れこんで部屋のなかに充満していた」。花は、母親がかつて借りていた窓の数が少ない部屋に舞い戻っている。窓の外には、一面夕焼けが懐かしい色に燃えるように広がっている。読み終えると、胸にささるかすかな影が揺れていた。

かわかみみえこ/大阪府生まれ。2008年「乳と卵」で芥川賞、10年『ヘヴン』で芸術選奨文部科学大臣新人賞および紫式部文学賞、13年『愛の夢とか』で谷崎潤一郎賞、19年『夏物語』で毎日出版文化賞など受賞歴多数。23年2月、『すべて真夜中の恋人たち』が全米批評家協会賞の最終候補作に選出された。
 

Robert Campbell/ニューヨーク市生まれ。日本文学研究者。近著に『英語でたのしむ福音館の絵本ll』『よむうつわ』。

黄色い家 (単行本)

黄色い家 (単行本)

川上未映子

中央公論新社

2023年2月20日 発売

働いていたスナックが焼失、カード詐欺に手を染め…「自分の居場所を守りたかった」女性(40)が最後に“たどり着いた場所”

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