ルシア・ベルリンは、アメリカでは「知る人ぞ知る」作家だった。生涯で76の短篇を書いた。幼い頃は鉱山技師の父親の都合で北米を転々とし、その後チリへ移住。大学在学中に最初の結婚。3度の結婚と離婚をし、その間に4人の息子を持つ。高校教師、掃除婦、電話交換手、ERの看護師などをしながら、シングルマザーとして子供を育てつつ、20代から小説を書きはじめ、断続的に発表していた。一見してハードな人生。小説のほとんどは、その経験に材をとったものだ。死後の2015年、全作品の中から43篇が選ばれ、作家のリディア・デイヴィスの序文が付された作品集がアメリカで新たに出版されると、雑誌や新聞の年間ベストテンを席巻し、「再発見」された。本書は、岸本さんがその中からさらに24篇を選び、翻訳したものだ。
「十数年前に偶然、リディア・デイヴィスがルシアの作品を褒めている文章を読んだんです。リディアはクールな作家で、あまり他人の文章を褒めないのに、珍しく褒めていた。ルシアのいわゆるブルーカラーの経歴にも興味をもって、本を取り寄せました。最初に読んだのは、レモネードを飲みながら道路が舗装される様子を眺めるというだけの「マカダム」という掌篇です。無駄のない文章で、グリップ力が強くて。一瞬で心を掴まれて、そこに漂う癒しがたい孤独感に引きずり込まれました」
岸本さんが最初に翻訳した短篇「火事」は、編訳を手がけたアンソロジー『楽しい夜』に収録されている。その後、「早稲田文学増刊 女性号」に、表題作にもなっている「掃除婦のための手引き書」の翻訳を寄せた。
「責任編集をされていた川上未映子さんからメールを頂いたんです。ルシア・ベルリンで何か、というご指名でした。その他に雑誌に掲載した2篇以外は訳し下ろし。アメリカ版作品集から厳選していますが、掲載順は変えていません」
毎日バスに揺られながら死を思う「掃除婦―」。ERで働く“わたし”が、騎手が運び込まれてくるのを心待ちにしている「わたしの騎手(ジョッキー)」。「ドクターH.A.モイニハン」では、歯科医の祖父が、自分の歯を全部抜き、血だらけになる。ほかにも、コインランドリーで出会うインディアンの話や、アル中デトックスものなど、当時のアメリカの様々な風物が描かれている。
「ルシアは幼少期に祖父に性的虐待を受けていたようで、大人になってからもアルコール依存症になるなど、普通の人ならば発狂してしまいかねない人生でした。最初に短篇を発表したのは24歳の時なのですが、書いていたから正気を失わずにすんだのかな? とも思います。でも小説は悲劇的には書かれていないし、傷を物語として昇華するわけでもない。目的があって書いているというより、書かされている、という感じ。文章にしなやかな強さと、華やかさをすごく感じます。行間から、彼女の笑い声が聞こえるような気がするんです。彼女の小説の一番の魅力は、誰にも似ていない“声”なんだと思います」
SNSとの相性もよい本で、ある書店の宣伝ツイートに数百の「いいね」がついたことも。翻訳書には珍しく、即重版がかかった。
「ニッチな翻訳好きの人々以外にまで届いている感触があります。表紙に本人の写真を使ったのは、“この人が書いている”と見せたかったから。一人の女性の話を聴いているような感じもあります。等身大の人間の声がこちらの魂に響いてくる。そういう文章を読む喜びが感じられると思います」
Lucia Berlin/1936年、アラスカ生まれ。77年に最初の作品集が発表される。2004年ガンのため死去。
きしもとさちこ/翻訳家。訳書にリディア・デイヴィス『話の終わり』など。2007年、『ねにもつタイプ』で講談社エッセイ賞受賞。