越路吹雪のマネージャーをつとめながら、歌謡曲の黄金時代を担う大ヒット作詞家として、加山雄三やザ・ピーナッツらに歌詞を提供した岩谷時子。そんな彼女の人生を、関係者への詳細な取材や本人が所有していた貴重な資料をもとにあきらかにした評伝『ラストダンスは私に』が発売されました。同書の第8章「伝説のステージ」より、1970年の「越路吹雪ロングリサイタル」以降に起きたエピソードを特別公開します。
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ロングリサイタルの最中の5月12日、加山雄三の母、小桜葉子が、時子より2つ年下の52歳という若さで亡くなった。数年前、スキーの際に怪我をして、片方の腎臓を失ったことによる腎臓障害のために、子宮癌の発見が遅れたとのことだった。
小桜は戦前、松竹から子役デビューし、映画界きっての二枚目俳優上原謙と結婚、1男1女をもうけた。若大将シリーズが大ブレイクした60年代に、独自の美容と健康法、小桜式整美体操を考案して日本全国に教室を広めた。息子と並んでいても、姉弟にしか見えない母子だった。
「とりあえず近親者のみで密葬をするそうです。僕は行きますが岩谷さんはどうなさいますか?」
東芝レコードのプロデューサー、渋谷森久が言った。前任の名和が会社を辞めてから、渋谷が越路と加山の担当になった。また、その優れた音響センスを浅利に買われ、越路のリサイタルや四季の公演でも音響調整を任されていた。
「行きます、渋谷さん、私を連れてって」
時子は渋谷とともにタクシーで茅ヶ崎の加山の家に向かった。
自宅での密葬だというのに、到着した時には、取材陣が既に放列をなしていた。
仕事先から戻ってきた加山は、ぎりぎりで出棺には間に合った。涙で人前に立てない喪主の父親に代わって挨拶を述べ、その間、彼に向かって一斉に無情なフラッシュが焚かれた。加山は片隅にいる時子に気づき、歩み寄った。
「岩谷先生、お忙しい中、母のためにわざわざお越しくださって本当にありがとうございました。生前はいろいろとご厄介になりました」
時子はかける言葉がみつからなかった。