戦前の、「○○的」というのが良し、とされる、頭の固い風潮がまだまだ残る中で、女の子だって面白がったり、ものを感じる力を持っているんだ、ということを、みずみずしく描きたいと思って書いたこの小説が、思いがけず、こんなに多くの人に読み継がれることになって、私も一生ならぬ、二生も、三生も生きたような気がします。
(田辺聖子『言い寄る』講談社文庫p396「あとがきに代えて」より)
田辺先生のおっしゃる「頭の固い風潮」が、はたして戦前の時代にとどまったものなのかどうか、いささか、いやものすごく疑問の残るところではあるけれど。それにしたって田辺聖子作品には古さを感じない。読んでいると、約50年前に書かれた小説だなんてことに気がついて、新鮮に驚く。
田辺聖子は「働く女の子」を描いた作家だった
田辺聖子、の名前を聞いて思いつくジャンルは人によってさまざまだろう。恋愛小説だったり、古典の新訳だったり、はたまたあの映画の原作だったり、朝ドラだったり。だけどそのどのジャンルの中にも、実は、田辺聖子は必ず「女性と労働」というテーマをしのばせていた。いや、女性と労働なんて頭の固そうな言葉でまとめてしまっては、その魅力が失われてしまう。率直に言えば、「働く女の子」を描いたのが田辺聖子という作家だった。
紫式部も実は宮中で働くOLだったし、田辺作品のヒロインはいつも恋をしつつ働く女性で、そもそも田辺聖子自身も書くことを仕事にする女性である。田辺聖子は鶴見俊輔との対談のなかで、「世間には、若い女の子が結婚せずに仕事をつづけたいのに、親は「仕事やめて結婚しろ、しろ」というケースが多いでしょう。わたしなら、仕事にかけたいという娘ならいくらでもあと押ししてやるのに」 (注)と述べている。
女の子が働くこと。田辺聖子が1958年にデビューし、1964年の東京オリンピックが終わって「OL」という言葉が生まれた時代に、それは小説の新しいテーマだった。
男性作家の描くヒロインとしての女の子ではなく、自分でお金を稼いでその裏で恋愛をする女の子。冒頭に引用した「あとがきに代えて」で田辺聖子が述べた「女の子だって面白がったり、ものを感じる力を持っているんだ」という言葉には、裏返すと、当時はまだ女の子が面白がったりものを感じる力を持ったりしていないと思われた時代だったのだ、という告白が読める。
古くならない「舐めんな」の姿勢
翻って50年後の2019年現在、田辺聖子は旅立ってしまったけれど、それでもまだ、彼女が描いた作品は、まったく、古くない。
何が古くないかといえば、もちろん男女の趣味のいい会話や、週末に飲むビール、女友達とぐだぐだと話す時間など、今も「わかる!」と共感してしまう場面の描き方もあるけれど。同時になにより、田辺聖子の描くヒロインが無言で発する「舐めんな」とでも言いたげな姿勢が、今もなお田辺作品が読まれる理由ではないだろうか。