女の子だからって舐めんな、私はちゃんと心をもった人間だし、ものを考えてる人間なんだぞ、と。
まだセクハラという言葉もなかった時代だ。フェミニズム、という言葉もはっきりと小説のなかには出てこない。田辺聖子自身もまた、書くことを仕事にするひとりの女の子だったわけだけれど、そこに人には言わない、言えない苦労があったであろうことは想像に難くない。現に、上野千鶴子との対談のなかでさらりと彼女は自分の作品がなかなか男性の批評家から評価されていなかったのだ、と述べている。
彼女は小説のなかで、繰り返し、繰り返し主人公に言わせた。「舐めんな」と。それも、真正面からではなく、あくまで言外で、ふんわりと。
「舐めんな」と啖呵を切っても泣いてしまうこともある
「泣き泣き大メシ、というのはあンたのことやなあ」
というので、私は笑ってしまった。泣くか笑うか、どっちかの瀬戸際だったけれど、泣いたら化粧が崩れるから笑うことにしたのだ。
「そうね、……そんなときもあっていいのやない?」
「何も、悪いとはいうてない。女の子の泣くのは、ときどき部品の掃除をするようなもんでね」
掃除ならいいけど、私のは分解してみると、もう使いものにならないキズモノになってる感じ。
(p350)
舐めんな、と彼氏との喧嘩では啖呵を切ることはできても、それでも泣いてしまうことはある。だけど『言い寄る』のヒロインは、男性が前に来れば、泣くのではなく笑うことを選択してしまう。泣くか笑うか、どっちかしないと自分が保たれないんだけど、でも化粧が崩れるから、笑うほうにしておく、と。
切実なのだけど、どこかコミカルで、自虐する余裕もある。悲劇のヒロインになりきれないのが、田辺聖子作品の特徴でもある。どこか自分を客観視しすぎるから、仕事はできるんだけど、傷つくことも多い。でも、泣くことより、笑うことを優先してしまう。
それが田辺作品のヒロインだった。
今回引用した『言い寄る』をはじめとして、田辺聖子が「働く女の子」を描いた頃から、約50年経った。だけど今もなおフェミニズムという単語は目に入るし、その単語が必要とされる社会のままだ。だからこそ田辺作品はずっと生きる。彼女の描く、「泣くことよりも笑うことを優先してしまうヒロイン」は、今もどこかの働く女の子の本棚にそっとしまわれているのだろう。
(注)……田辺聖子・鶴見俊輔対談「男と女のあいだ」(『田辺聖子全集』別巻p174、集英社、2006年)