平成の女の子たちは、「弱い男の子」に恋をした。

――平成が終わろうとする今、数々の少女マンガを片目に、そんなテーゼを発見してみたいと思う。

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 平成がどんな時代だったかなんて、百人いれば百通りの回答があるわけだけど、それにしたって思う。「最近、平成の少女漫画リバイバル多すぎだろ!」と。

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 まさか2010年代が終わろうとする今、『バナナ・フィッシュ』や『フルーツバスケット』がアニメになるとは思わないし、まさか『ぼくの地球を守って』『ママレード・ボーイ』『カードキャプターさくら』の続編が拝めようとは、まさか『GALS!』の藤井みほな先生がツイッターに降臨するなんてー! このあたりのタイトルに反応した人は平成育ちの少女マンガ好きだろう。


昭和の少女マンガについて橋本治が述べたこと

 昭和の少女マンガ論として有名な『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(前篇・後篇、河出文庫)にて、橋本治は述べた。

自らが女であることを認めた少女の前に存在するものは垣根である。そしてその向うには少女と全く別種の人間が存在する。それは、男である。
(「妖精王國女皇紀――山岸凉子論」p177)

橋本治氏 ©文藝春秋

 自分はただの子どもだったのに、実は「女」という性を持っている。しかも自分が「女」ということは、この世には「男」という性が存在する。というか、顔を上げてみると、むしろ世界は「男」のものだとさえ思える。じゃあ、私は、「女」という性を持つしかない私は、どうやって生きていけばいいんだろう――。そんな逡巡をめぐる記録が少女マンガというジャンルなのだ、と。

 たしかに橋本治が論じるような「昭和の少女マンガ」には、今の少女マンガにも通じる、女性として成長する少女の揺らぎが描かれている。さらにヒロインの少女たちの前に現れるのは、多くの場合、「白馬の王子様」幻想を全身に背負い込んだ完璧な男性たちだ。

 たとえば宗方コーチ(『エースをねらえ!』)やミロノフ先生(『アラベスク』)のような「父」の面影をもつ男性から、少尉(『はいからさんが通る』)やアンソニー(『キャンディ・キャンディ』)のような王子様キャラまで。たとえ口が悪かろうと欠点があろうと、少女マンガのヒーローは、いつだって主人公を助けてくれる存在だった。

 だけど時代を経て、「平成」という時代の少女マンガが到来する。平成が終わろうとする今振り返ってみれば、少女マンガをとおして、私たちは「男」ではなく「少年」と出会ってきたのではないだろうか。