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玉音放送を聞きながら皇居前で土下座…貴重な写真で振り返る“大日本帝国”崩壊の瞬間

玉音放送を聞きながら皇居前で土下座…貴重な写真で振り返る“大日本帝国”崩壊の瞬間

『写真が語る銃後の暮らし』より #2

genre : ライフ, 社会, 歴史

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二度の「聖断」で無条件降伏が決まる

 8月9日午前11時過ぎ、長崎への原爆投下の1時間ほど前から、東京では最高戦争指導会議構成員会議が開かれていた。ポツダム宣言受諾を巡って条件付きでなければ受諾できないとする陸軍と、無条件で受諾すべきだとする政府・海軍とで意見は真っ二つに分かれた。

戦艦「大和」が沈没した同じ日に鈴木貫太郎内閣が発足する。鈴木首相は外交交渉による早期の和平・終戦工作を模索するが、1945年6月8日の御前会議の本土決戦方針の決定によって、「戦時緊急措置法」(6月22日公布)と「義勇兵役法」(6月23日公布)が成立する。「義勇兵役法」では、男性は15歳から60歳まで、女性は17歳から40歳までを召集の対象とし、本土決戦になった場合には「国民義勇戦闘隊」としての兵役義務を課した。写真前列中央が鈴木首相

 昭和天皇が和平を求めていることを知っていた鈴木貫太郎首相(1945年4月7日に就任)ら終戦派は、天皇の「聖断」によって終戦に導こうと考えた。そして8月9日深夜に御前会議が開かれ、日付が変わった10日午前2時、意見が出尽くしたところで鈴木首相が聖断を請うと、天皇は明快にポツダム宣言受諾の意志を示した。

爆心地から500メートル北東にある崩れ落ちた浦上天主堂。長崎市では原爆投下から12月までに7万3800人を超える死者を出した

 ところが、外務省が連合国に「天皇の地位に変更がないと了解(解釈)してポツダム宣言を受諾する」旨を打電したところ、米国の返答、いわゆる「バーンズ回答」で、天皇および日本政府の権限は「連合国最高司令官に隷属する」とされたものだから、軍部はこれでは「国体護持」は貫かれないと反発。受諾拒否、本土決戦を叫び始めて再び会議は紛糾した。

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 事態を収拾したのは天皇の二度目の「聖断」だった。8月14日午前11時から御前会議が開かれ、受諾派と反対派の意見がそれぞれ述べられた後、鈴木首相は再び天皇の判断を仰いだのである。

 ポツダム宣言を受諾して戦争を終わらせるという天皇の意志は不変で、梅津美治郎参謀総長のメモによれば、「国体の護持については敵も認めて居ると思う、毛頭不安なし」と問題にせず、天皇自身がラジオ放送を通じて降伏を国民に周知しても良いとまで言った。ここに、ポツダム宣言受諾が決まった。

 8月15日早朝からNHKは、正午に「重大放送」があることを繰り返し伝えていた。国民も戦地の将兵もラジオの前に集まり威儀を正してその時を待った。

「ポツダム宣言」受諾に関して、「国体護持」を巡り最高戦争指導会議は紛糾したが、2度の原爆投下とソ連参戦を受けて、1945年8月14日の御前会議で無条件降伏を受け入れた。翌15日正午、昭和天皇の「終戦の詔書」がラジオで放送された。写真は「玉音放送」を聴き、皇居前で土下座する人々。その後の「終戦の日」のイメージを決定づけた

 そして天皇の声が流れ出し、「……茲(ここ)に忠良なる爾(なんじ)臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英支蘇(そ)四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」と述べた。「共同宣言」が何を意味するのか知らない国民は、何のことか分からなかった。やがて、「戦局必ずしも好転せず」とか「時運の趨(おもむ)く所、堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以て万世の為に太平を開かんと欲す」のくだりになって、ようやく「日本が負けたのだ」と悟ることができた。国民の多くは思いもかけぬ敗戦を知らされ、愕然とした。皇居前には、土下座して泣く「臣民」の姿が多く見られた。そして午後3時20分、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。

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