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玉音放送を聞きながら皇居前で土下座…貴重な写真で振り返る“大日本帝国”崩壊の瞬間

玉音放送を聞きながら皇居前で土下座…貴重な写真で振り返る“大日本帝国”崩壊の瞬間

『写真が語る銃後の暮らし』より #2

genre : ライフ, 社会, 歴史

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 この日は不思議と静かだった朝鮮の京城(ソウル)市内は、翌16日になると南大門通りが白い朝鮮服で埋まり、人々の「万歳(マンセー)」「万歳(マンセー)」の叫び声が響いた。同日、東久邇宮稔彦王に組閣が命ぜられ、17日に皇族内閣が発足した。

見捨てられた満州開拓移民

 この戦争の発端となった満州はどうだったか。1945年5月30日に大本営は「満鮮方面対ソ作戦計画要綱」を作成。すでに関東軍が、満州国の新京を頂点とし朝鮮国境を底辺とする三角形の中に立てこもる方針を発令していた。この三角形の外の国境地帯に入植していた開拓団や在留邦人については「対ソ静謐確保」のため、ソ連参戦の恐れがあっても事前退避の措置はとられなかった。そして8月9日のソ連軍の侵攻によって満州国は崩壊する。日本が固執し、その確保のために戦争に突入した満州国が幻となって地上から消えたのだった。

 関東軍に置き去りにされた在留邦人は、直前の根こそぎ動員によって壮年男子を関東軍に取られたため、老幼婦女子主体だった。避難命令は出されたが、逃避行の途中でソ連軍の攻撃により殺され、あるいは集団自決し、略奪や暴行にさらされた。

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1945年8月8日、ソ連が日本に宣戦を布告、翌9日に日本への侵攻を開始した。写真は満州国国境を突破するソ連軍

 中国人に襲われた人々もいた。開拓団の多くはソ満国境地帯に入植させられていたが、「開拓」とはいっても、その土地は中国人や朝鮮人から耕地をただ同然で買い上げたものが多く、満州への開拓団送り出しも1936(昭和11)年の「二〇カ年百万戸送出計画」のように国策移民であり、ソ連侵攻の直前に入植したような開拓団もあった。開拓団は結果的に“棄民”に等しかったのだ。

 ソ連参戦時の逃避行を生き延びても、その後の日本人難民としての抑留生活のなかで餓死・病死した在留邦人も少なくない。今日まで続く中国残留邦人(残留孤児・残留婦人)はその過程で発生したし、根こそぎ動員によって関東軍に編入された男性の多くは、戦後、シベリアや中央アジアに抑留され強制労働を強いられることになった。

ソ連の満州侵攻に関東軍はいち早く撤退し、満州開拓団の人々は置き去りにされた。難民となった彼らは逃避行を続けたが、病死や自決、ソ連軍や現地住民の襲撃などで8万人近くが犠牲になったといわれている。写真はソ連国境近くの開拓村の子どもだが、国境付近に入植した人々が真っ先に犠牲になった

 8月28日、東久邇宮首相は国体護持の姿勢を強調するとともに「全国民総懺悔することが、我が国再建の第一歩である」と声明。戦争責任を全国民に帰するかのような発言をし、波紋を呼ぶことになる。そして同日、連合国軍先遣部隊が厚木飛行場に到着した。また湘南海岸にも上陸してきたのである。

写真が語る銃後の暮らし (ちくま新書 1732)

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太平洋戦争研究会

筑摩書房

2023年6月8日 発売

玉音放送を聞きながら皇居前で土下座…貴重な写真で振り返る“大日本帝国”崩壊の瞬間

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