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あれほど「体育」が嫌いだった僕が、「ひとりで走ること」を人生の最大の楽しみにするようになったワケ

source : 提携メディア

genre : ライフ, ヘルス

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僕は2020年(実際に開催されたのは2021年)の東京オリンピックの開催には、誘致運動の段階から反対していた。このオリンピックが東日本大震災からの復興も十分ではない当時の日本に必要だとはどうしても思えず、発表された計画も杜撰で、誘致に成功してもあまりいい結果をもたらさないと考えたからだ。

そして反対だからこそ、もしどうしても開催されるのであれば、こういうオリンピックとパラリンピックにしようぜという「夢の企画」を、仕事仲間のジャーナリストやアーティスト、社会学者や建築家たちと一緒に考えて、1冊にまとめたのだ。もし興味をもってくれたら読んでくれると嬉しいけれど、このとき僕が考えたのが、日本の「体育」的な価値観の見直しだった。

体育は歯車のような人間を量産する

僕が「体育」嫌いだったことはすでに書いたけれど、僕はこのとき、なぜ自分はあれほどまでに「体育」が嫌いだったのか、その理由をはじめて考えた。そして、いろいろと調べていくうちに、日本的な「体育」というものが、実は現在のスポーツ研究の世界の中において、よく批判されていることを知った。

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日本的な「体育」の、ひたすら苦痛を我慢して目標を成し遂げることをいいことだとする考え方や、集団に合わせる訓練を重視するやり方は、現代的な「スポーツ」研究の世界では否定されることが多い。

この日本的な「体育」は、たとえば工場や戦場などで支配者が扱いやすいネジや歯車のような人間を量産することには向いていても、それぞれの個人がもつ個性や潜在的な身体能力を解放し、引き上げるためには効果的ではないからだ。

だから僕は、東京オリンピックを通じてこの国の「運動する」文化を、「体育」ではなく「スポーツ」へとアップデートする機会にしようと考えたのだ。そうしてできあがった1冊を読んだことが、上田さんが僕のところに取材に来たもうひとつの理由だった。

彼は、僕と仲間たちが考えたあたらしいオリンピックの企画案に、「競技スポーツ」ではない「ライフスタイルスポーツ」としてのランニングの楽しさに近いものを感じたのだと話してくれたのだった。