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終戦、78年目の夏

やせ細って妄想にとりつかれた兵士たち、日光が入らないように病室に暗幕を…100歳の元「従軍看護婦」の見たもの

やせ細って妄想にとりつかれた兵士たち、日光が入らないように病室に暗幕を…100歳の元「従軍看護婦」の見たもの

100歳の元「従軍看護婦」と“あの頃の日常”#1

2023/08/15

genre : ニュース, 社会

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 土屋美代子さんは千葉県香取郡出身、1923年(大正12年)4月25日生まれ。今年100歳の誕生日を迎えた、元「従軍看護婦」だ。

 1943年(昭和18年)、 看護婦養成学校を卒業し日本赤十字社(日赤)に所属した土屋さんは、開設されたばかりの戸塚海軍病院に配属された。当時、日本赤十字社の看護婦(師)には、養成学校卒業後12年間、従軍看護婦としての応召義務があった。

 外科、内科、伝染病科と、20棟以上の病棟と軍医学校、衛生学校を併設し、海軍の傷病兵を収容していた当時の戸塚病院はまさに大型施設で、のちに聖路加国際病院長も務める故日野原重明医師なども併設の軍医学校で一時訓練を受けている。

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 そんな海軍管轄の巨大病院で、当時20歳だった土屋さんの新たな日常が始まった。

現在の土屋美代子さん

完成しているはずの病院に行ってみると…

――まずは戸塚海軍病院に赴任されたいきさつを教えてください。

土屋美代子さん(以下、土屋) 1943年(昭和18年)12月初めに日赤本社で召集があり、新しく戸塚に海軍病院ができたからそこへ行けといわれて、私たち本部班と別に山梨班、計2個班、40人が派遣されました。1班に婦長(師長)が1名、看護師が10~20名に、専任下士官が1、2名と、この班の中でも階級があって、私はペーペーでした。でも、病院での待遇はみな下士官待遇で普通の兵隊さんたちよりも上の階級だったんですよ。

婦長交代の記念で撮影された当時の1枚(著書「過ぎた歳月」より)

――赴任した日のことを覚えていますか?

土屋 戸塚の駅に集合して現地に到着してみると、その年の前半には完成していると聞いていた病棟が、まだなにも完成していないんです。しかたがないので、横須賀の海軍病院に見習いとして派遣されたりもしました。横須賀までは海軍が装甲車に乗せてくれたように記憶しています。

 12月の終わりに「とりあえず病棟が2棟完成した」と連絡があって、ようやく本来の勤務が始まりました。

〈こうしてようやく始まった病棟生活。しかし、当初の病棟は文字通り建物が完成しただけで、患者を受け入れる準備はまだなにも整っていなかった。敷地内には建築資材がうずたかく積み上げられた状態で、ベッドひとつとっても海軍式のものを土屋さんたちが一から準備せねばならず、2棟全部の病室で患者を収容可能になるまで2、3日かかったという。〉