試験を受けに行ってみると、他の受験生のデッサンがお世辞にも上手ではなく柴崎さんは驚いてしまった。面接試験で「入学させてくれれば、私が周りの人にデッサンを教えますよ」と豪語すると、「お前面白いヤツだな。決めた。入れてあげる」と即答され、本当に合格してしまった。
大学4年間も、柴崎さんは大学のアトリエに籠ってひたすら絵を描いていた。絵が上手くなること以外、服装にも異性にも美味しい食べ物にも、学生運動にも、まったく興味が湧かなかったという。
絵を描く以外にしたいことがなかったので卒業を迎えても就職をする気になれず、生活費に困った柴崎さんはアパートに栄養失調状態で寝そべっていた。
「上野公園で似顔絵描きでもやるか」
そんなふうに考えていた矢先、大学から呼び出しがきた。
行くと荻太郎という教授が「就職は決まったか」と聞くので、「いえ、ぜんぜん」と答えると、絵画の通信添削をやっている講談社フェイマススクールズを紹介された。言われたままに自作の絵を数枚持っていくと、添削指導をする講師のアシスタントとして採用されることが決まった。
「絵の力で勝つ」まで
講談社フェーマススクールズは、講談社の野間省伸社長が自らアメリカから招いた絵画の通信教育機関であり、講師陣には当時の一線級の画家が集まっていた。
「給料は一般の新卒よりもはるかによかったし、アメリカから絵画に関する資料が続々と送られてくるので絵の勉強はできるしで、私にとっては天国でしたね」
柴崎さんは、「歴々たる講師陣の上に出たい」という強い欲求を持っていた。藝大出でもなく日展や二科展などの団体展のメンバーでもない柴崎さんが、師弟関係や派閥が絵描きとしての評価を左右する日本の画壇で「上に出る」のは難しかったかもしれない。
しかし、講談社フェーマススクールズにはさまざま団体の画家が集まって、日本の画壇の因習に縛られない独特のコミュニティーを形成していた。契約は一年更新。誰もが「絵の力」で評価を獲得するしか生き残る道はなく、毎日が真剣勝負だった。