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近藤真彦は包帯を巻き、中森明菜は松葉杖をついて出演…“昭和のスター”が伝説の音楽番組『ザ・ベストテン』で見せた“リアルな姿”

『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』より #2

2023/11/30
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黒柳徹子さんとレコード大賞の司会を辞退した真相

 ランキングの厳正さは、他の番組にも影響を及ぼした。黒柳さんと僕は当時大晦日に放送されていたTBS「日本レコード大賞」の司会を、高橋圭三さんとともに1977年と78年の2年間担当した。(ザ・ベストテンは77年の年末にスタートしていた。)

 ところが78年の受賞曲のラインナップが、年末の『ザ・ベストテン』の年間総合ベストテンの内容とあまりにかけ離れていた。同じ司会者によって同じ時期に発表される今年のヒット曲がまったく違うということが許されるだろうか。

「ねぇ久米さん、この司会、やめません?」

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 黒柳さんの提案に僕は諸手を挙げて賛成し、翌年から2人でレコード大賞の司会を降板した。僕の思いはほとんど黒柳さんによって代弁され、僕は「右に同じ」で済んだ。その意味で黒柳さんに大いに守られ、助けられた。

 ランキングにまつわる記録を記しておこう。最も注目を集めたのが、1位を何週続けられるか。最長記録は1981年に大ヒットした寺尾聰さんの「ルビーの指環」で連続12週。2位は10週連続だった世良公則&ツイストの「銃爪」。

 トップを飾った回数の1位は中森明菜さんの69回。次いでチェッカーズの51回、松田聖子さんの44回。ベストテン入りの回数では田原俊彦さんの247回がトップで、最高得点は4桁で表される数字で満点の9999点を記録した西城秀樹さんの「ヤングマン」だった。

久米宏さん ©文藝春秋

『ザ・ベストテン』と『ニュースステーション』

『ザ・ベストテン』の魅力は、やはり何といっても生放送にあった。

 ランキングも歌手の衣装も中継地の天気もすべて情報だ。だから、この歌番組は「生の情報番組」という意識を、黒柳さんと僕は番組スタート前から強く持っていた。番組の中でも「『ザ・ベストテン』は生放送、生中継、生きている情報、良質な情報、品位のある内容を提供します」とアピールした。

 放送中にニュースが飛び込んでくる。せっかくの生放送だから、ニュースの話をしたらどうか。黒柳さん自身、国際情勢や政治に強い関心がある。次第に歌の合間に時事的な話題を取り入れるようになった。

 1983年9月1日、ソ連領空内に侵入した大韓航空のジャンボ機が、ソ連の戦闘機に撃墜された事件が発生した。航路を見れば、操縦ミスなどではなく意図的な領空侵犯としか思えない。なのに、どのニュースもそれには触れていない。それなら僕が指摘してみよう、と番組冒頭に話した。

「大韓航空機が樺太上空で墜落した模様です。それにしても、どうしてこんなにソ連領空内を奥深く侵入したんでしょうね」

 僕にとって『ザ・ベストテン』は時事的、政治的な情報番組であり、のちの『ニュースステーション』のほうがニュースを面白く見せることに腐心したぶん、ベストテン的という意識が強かった。2つの番組は、僕の中で表裏の関係をなしていた。

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