『ぴったしカン・カン』『ザ・ベストテン』(ともにTBS系)、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)など、数々の伝説的な番組を担当したフリーアナウンサーの久米宏さん(79)。今年10月に、自身の歩みを振り返った自叙伝『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(朝日文庫)を上梓した。
テレビ業界の常識や前提を覆し、革新的な手法で番組を作り上げていった久米さんはしばしば、“テレビを変えた男”と称される。いったい彼は、どのように番組作りに携わり、名番組を生み出していたのだろうか。久米さん本人に話を聞いた。(全4回の2回目/3回目に続く)
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「『ニュースステーション』は絶対に失敗する」と言われていた
――1985年10月、これまでの日本の報道番組の常識を覆した『ニュースステーション』がスタートし、久米さんは18年半もの間、メインキャスターとして活躍されていました。
久米宏さん(以下、久米) もともとクイズ番組や歌番組の司会をしていた人間が報道番組を担当することに対して、当時の風当たりの強さは尋常じゃなかった。
週刊誌やスポーツ新聞で、「『ニュースステーション』は絶対に失敗する」と記事にされ、番組がスタートする前から、失敗の“仕方”まで考えてくださるメディアもありました。
――強い批判に晒されながらも、新しい形の報道番組を作り続けられた理由はなんだったのでしょう。
久米 開始前から「失敗する」と言われていた『ニュースステーション』が「成功」とみなされるためには、新しいことをやり続けるしかなかったんです。
ただ、新しい番組を作るだけなら誰でもできます。今までにない発想で、成功する番組を作らなくてはいけなかった。そのために、国内外問わずいろいろなニュース番組を見て研究しました。
アナウンサーの原稿の読み方、表情まで研究
――具体的にどのようなことを研究したですか?
久米 例えば、なぜニュースのトップは政治経済の話題と決まっているのだろうか、犬が負傷したニュースがトップではダメなのか、というところから考え始めました。
ニュースの読み方ひとつでも、なぜどのアナウンサーも同じような表情で原稿を読み上げるのか、というのを気にしながら番組を見たんです。政治や経済の話題では神妙な表情をし、スポーツの話題に切り替わった瞬間に笑顔になるのも、視聴者にとっては不自然じゃないのか、というのも考えましたね。
つまり、これまでの報道番組で「当たり前」とされてきたことをひとつひとつ疑うことで、少しずつ新しい形を作り上げていったんです。