『ぴったしカン・カン』『ザ・ベストテン』(ともにTBS系)、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)など、数々の伝説的な番組を担当したフリーアナウンサーの久米宏さん(79)。今年10月に、自身の歩みを振り返った自叙伝『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(朝日文庫)を上梓した。

 テレビ業界の常識や前提を覆し、革新的な手法で番組を作り上げていった久米さんはしばしば、“テレビを変えた男”と称される。いったい彼は、どのように番組作りに携わり、名番組を生み出していたのだろうか。久米さん本人に話を聞いた。(全4回の1回目/2回目に続く)

久米宏さん(写真=オフィス・トゥー・ワン提供)

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就活時はTBSとニッポン放送の2社を受験

――長年メディアの第一線で活躍されてきた久米さんのキャリアのスタートは、TBSへの入社だったそうですね。

久米宏さん(以下、久米) 僕が就職活動をしていた当時は、大学の「就職部」を通して企業に応募しなければいけませんでした。奇跡的に卒業できた程にひどい成績だった僕は、どこに応募しても学内選考を通過できなかった。

 そんなとき、ラジオの深夜放送でアナウンサー試験のお知らせを耳にしたんです。「成績問わず」「27歳まで応募可」と非常に緩い条件だったから、「物は試しだ」とTBSとニッポン放送の2社を受験しました。

――ニッポン放送ではなく、TBSに入社した経緯は?

久米 ニッポン放送の面接当日に寝坊したんです。本社のある地下鉄日比谷駅の階段を走って駆け上がったのですが、結局15分ほど遅刻してしまって。面接官から、「放送局の試験に遅刻するとは、どういうことか分かるね?」と聞かれ、「一応分かります」と答えたら即不採用となりました。

 この時点で僕に残されたのはTBSのみだったので、寝坊や遅刻に気をつけて受験したら採用されたという経緯ですね。ただ正直、受かるとは全く思っていませんでした。

ラジオは「聞くもの」、テレビは「見るもの」だと思っていた

――なぜ受からないと思っていたのでしょうか。

久米 試験日には、TBSのある赤坂見附駅が受験生で埋まるほど、アナウンサーを志す人は多くいました。周りの受験生は、小さい頃から話し方の訓練を重ね、高校や大学では放送研究会に所属しているような人たちばかり。

 一方で学生時代の僕は、勉強そっちのけで演劇とアルバイトに明け暮れていた。そんな中で採用されるのは、宝くじを当てるより難しいと思っていました。

 それに小さい頃からテレビやラジオは大好きでしたが、ラジオは「聞くもの」、テレビは「見るもの」だと思っていました。まさか自分が“こっち側”に来るとは考えていなかったですね。