『ぴったしカン・カン』『ザ・ベストテン』(ともにTBS系)、『ニュースステーション』(テレビ朝日系)など、数々の伝説的な番組を担当したフリーアナウンサーの久米宏さん(79)。テレビ業界の常識や前提を覆し、革新的な手法で番組を作り上げていった久米さんはしばしば、“テレビを変えた男”と称される。いったい彼は、どのように番組作りに携わり、名番組を生み出していたのだろうか?
ここでは、久米さんの自叙伝『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(朝日文庫)より一部を抜粋してお届けする。(全4回の3回目/4回目に続く)
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『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』で与えられた仕事
結核が治りかけのころだった。TBSラジオで1970年5月から始まった、永六輔さんがパーソナリティーを務める新番組『永六輔の土曜ワイドラジオTOKYO』(以下、『土曜ワイド』)で、僕は1つの仕事を与えられた。自信はまったくなかったけれど、このまま引きさがれば負け犬を絵に描いたようなものだ。とにかくやってみて失敗したらあきらめよう、と思って臨んだ。
毎週土曜、当初は午後1時から5時半の生放送。僕の仕事は、毎回の放送が始まる前に街頭や原っぱなどの屋外で人を集める“前説”のようなものだった。古今亭志ん駒さんの「街かど寄席」に向けた客の呼び込み。機材を運んだり、集まった人を整理したり、アシスタント・ディレクターの手伝いのような仕事を何カ月か続け、現場に復帰していった。
――という顛末が、僕の記憶にある「苦節2年半の闘病物語」なのだが、あらためて経歴を調べると、どうも事実関係が合わない。『パック』降板の時期と『土曜ワイド』参加の時期がほぼ重なっており、軽勤務でひたすら電話番をしていたのは、結核ではなく胃腸炎に苦しんでいた時期だった疑いがある。
身体的には明らかに胃腸炎のほうが重篤だったが、結核にかかったという精神的打撃があまりに強く、苦難の月日はすべて結核のせいだったと記憶が塗り替えられたのか。当時のことは思い出したくもないという気持ちが記憶に目隠しをしているのかもしれない。人間の記憶は時として混乱するものらしい。無理につじつまを合わせずに、ひとまずここはあいまいなままに留めておくことにする。
なんでも中継してみる
さて、『土曜ワイド』では、やがてリポーターとして単独コーナーを持たされるようになった。TBSの担当ディレクター岩澤敏さん(2歳年上ながら2期後輩のため、以下、当時同様呼びすてにします)と「とにかく今までラジオで中継したことのないものを中継しよう」ということで意見が一致した。
「誰もしたことがないということは、できないからしてないんじゃないの?」
「だから面白いんじゃないか」
常識ではラジオで中継できないものを中継するコーナー「久米宏のなんでも中継‼」が始まった。
記念すべき第1回がオンエアされたのは、その年の9月5日、上野動物園の猿山中継だった。日付まで覚えているのは、その翌日の日曜に父親が亡くなったからだ。