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俳優たちの演技がどんどんエスカレートして…

 若くてきれいな女優は前貼りをして、男優はイチモツに包帯を巻きつけて撮影に臨んだ。ところが中継が始まると、まず監督さんが緊張したのか勘違いしたのか、すっかり黙り込んでしまった。

 すると俳優たちがその沈黙を埋めようと妙に気を遣って “リアルな演技”をしだした。男優が「あ、いい、いいよ~」と叫べば、女優も「もっと、ねぇお願い、もっと、あ~いいわ~」。これがどんどんエスカレートしていった。

 土曜真っ昼間の生放送だ。もう誰も止められない。止めることができるのは、永六輔さんただ1人。

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「もうダメだ! ダメ、こんな中継やめだ! 切って、切って」

 痛恨の大失敗。監督たちに「いつも通りにお願いします」と伝えていなかったのが最大のミスだった。このとき日活側の窓口をしていたのが、のちに『シコふんじゃった。』『Shall we ダンス?』で大ヒットを飛ばす監督の周防正行さん。当時はサードぐらいの助監督だった。後年、周防さんに会ったとき、このときのことを持ち出したら、

「久米さん、あのときは本当にすみませんでした」

 はっきりと覚えていらっしゃった。

久米宏さんの著書『久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった』(朝日文庫)

家に帰っても「次は何を中継するか」だけをひたすら考えた

「なんでも中継」のコンセプトの1つは、「とりあえず自分で体験してみる」ということだった。高所恐怖症なのに窓拭きのゴンドラに乗ったり、ヘリでローターを止めて急降下したり。シンクロナイズドスイミングにも挑戦した。

 浅草の変わった料理店では、かまきりの姿揚げやマムシのぶつ切りを食べた。床の下でとぐろを巻いているマムシを釣り上げて生き血を飲んだ。おいしかったのは芋虫の唐揚げだ。外はカリカリで噛むとパリッといって、中からむにゅーっと緑色の歯磨き粉状のものが出てきて葉っぱの味がする。これが甘くて、芋虫が必死で食べた新緑が口中に広がった。

 中継ではよく走った。走り終わってハアハア息をしながらリポートしていた。聴いている人は、なぜ僕が息切れしているかがわからない。「呼吸器が悪いんじゃないか」と心配する手紙まで来た。走っていることをわかってもらうために、いい音がする靴を探し求めた。

 体が不自由で走れない人から「久米さんの中継を聴いていると、自分が走っているような気になって、とても楽しい」という感想を頂いてからは、下駄や雪駄も用意して、いっそう足音にこだわるようになった。

 週1回、数分間のこの中継だけが、当時の僕の唯一の仕事だった。企画を考える時間はいやというほどある。毎日、家に帰っても「次は何を中継するか」だけをひたすら考えていた。

「なんでも中継」が認められて、やがて番組のオープニングも任されるようになった。団地1棟を選び、

「ラジオを聴いている奥さーん、窓を開けて手を振ってくださーい!」

 と大声で叫んで何世帯が聴いているのかを調べる。この「聴取率調査」は番組の司会者としてスタジオに入る1978年まで毎週続けることになった。

その他の写真はこちらよりぜひご覧ください。