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連載明治事件史

「わたし、本当に困ります」“日本初のミスコン”に優勝した14歳の美少女…人生を狂わせた“写真”の背後にあるもの

「美人写真コンテスト」事件#1

2024/03/31
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「成り上がり」の華麗な家系

「ヒロ子は明治26年5月、父直方が警視庁第一部長(現在の刑事部長)を務めておりました時分に麹町区(現中央区)八重洲町の警視庁第二号官舎で生まれました。7人きょうだいでございます。

 

 一番上はナオ子と申しまして、司法省の技師を務めている山下啓次郎に嫁ぎ、次のイク子は公使館書記官・阿部守太郎の妻となっていまは北京におります。テイ子、直士、忠雄、ヒロ子、トメ子という順序で、直士は青山学院、忠雄は正則中学校、トメ子は父母の元におり、ヒロ子は学習院女学部の中等部3年生でございます。

 

 父が度々任地を替えたものですから、その都度学校も替わっておりますが、概略を申し上げますと、(明治)32(1899)年には父が高知県知事から岩手県知事に転任致しましたから、ヒロ子も岩手に行きましたが、そこでは小学校に入りませんでした。34(1901)年には東京へ出て赤坂仲之丁尋常小学校に入学。

 

 間もなく父が香川県知事になりましたので、またその地に行き、再び東京に戻って麻布小学校に入りました。さらに北海道・函館に赴任した父に同行。同地の高等小学校に入学し、その後上京して青山師範学校の付属高等女学校へ。38(1905)年に学習院女学部に入ったのでございます」

 ヒロ子の父・末弘直方は薩摩藩出身で、明治維新後、明治天皇の親兵や鹿児島県の官吏をした後、警視庁入り。巡査からたたき上げ、県知事を歴任。1906(明治39)年から小倉市長を務めていた。ヒロ子もその父に従って目まぐるしいほどの転地と転校を繰り返していた。

『ドバラダ乱入帖』では、長女ナオ子は「直子」、ヒロ子は「広子」となっている。長女ナオ子と夫山下啓次郎が洋輔氏の祖父母で、啓次郎は刑務所などの建設などで知られた建築家だったという。

 次女の夫・阿部守太郎は外務省政務局長だった1913(大正2)年、中国軍による日本人殺害事件をめぐって対中姿勢が軟弱だとして右翼に刺殺された。いずれにしろ、末弘家は明治の薩長閥の中で「成り上がった」とはいえ、華麗な家系といえる。姉の話はヒロ子個人の趣味や嗜好に及ぶ。

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「父が鹿児島人で踊りとか三味(線)とか申すものは大嫌いでございますから、ヒロ子も習ったことはございません。音楽はただいまピアノを稽古しております。花(華道)は麻布の田上さんに習わせておりますが、流(派)は池坊で郭栖園という号を嫌い、それでも許しだけはいただいています。お茶は表千家で、これはまだほんの初歩でございます。食べ物の好みですが、女のことでございますから取り立てて申すほどのものはありませんが……(と、ちょっとヒロ子の顔を見て『やはりおさつ(サツマイモ)でしょう。ホホホ』と笑う)。

 

 野菜ものが好きでございます。肉類もお魚もあまり好みませんが、うなぎは好きなようでございます、ホホホ……。お菓子もずいぶん好きで、甘いものには目がございません。果実の中では柿、みかんなどは大好物でございます。誠にもう無口な方で、用でもなければめったにお話も致しません。着物の丈(長さ)でございますか? 長じゅばんは3尺3寸(約1メートル)で、(ゆき)(背中から袖口までの長さ)は6寸5分(約20センチ)。姉妹の中では一番大きいのでございます」

 着物の寸法を聞くなど、女性の正装が和服だった当時の服装事情がうかがえる。記事の最後にやっと、肝心のヒロ子の談話を載せている。ヒロ子が語ったことは――。

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