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連載明治事件史

“日本一の美人”に選ばれる→中学を強制退学→すぐに結婚…当時14歳の少女がたどった「数奇な運命」とは

「美人写真コンテスト」事件#2

2024/03/31
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 同じ日付で時事新報も短い記事を載せ、「病床にある元帥の喜悦いかばかりならん」と書いた。野津元帥は重い病気にかかっていた。翌10月7日の記事は時事新報の方が扱いが大きいが、コンパクトな読売を見よう。

 野津侯爵令嗣の結婚式

 

 野津元帥令嗣、砲兵中尉・鎮之助氏(24)と豊前小倉市長、末弘直方氏令嬢・ヒロ子(17)とはいよいよ昨6日をもって華燭の典を挙げた。元帥の病状はいまだ全く快方にはないことから、盛大な儀式ではなく、川村(純義海軍)大将媒酌の下に極めて質素に行われた。

 

 ヒロ子嬢は数日前から野津邸に来て元帥の看護に余念がなかったが、5日、ひとまず麻布の親類、山下啓次郎氏方に引き揚げ、今朝新たに野津邸に輿入れした。鎮之助氏も目下砲工学校内に寄宿中で、一足先に帰邸し、ここにめでたく式を終えた。

 

 当日の服装は花婿は軍服、花嫁は紫紺地に紅葉と桜を散らし、扇の裾模様のある振袖の三枚重ねに、金茶地の網の目に菊花を織り込んだ厚板の帯を締め、髪は高島田と、全て純然たる日本式の装い。

 

 午後3時に式が終わり、すぐさま新郎新婦は相携えて祖先の霊前にぬかづき、のち高島(鞆之助陸軍)中将に導かれて元帥の病床の部屋に入った。元帥は病躯(びょうく)(病の体)に紋付の羽織を着け、看護婦に助けられて椅子にもたれ、満面に笑みをたたえながらもいと厳かに「人道を重んじて夫婦相和し、天皇陛下に忠に、親に孝を尽くし、わけても野津の家名を汚すようなことがあってはならぬ」と言い渡した。鎮之助氏は「2人は誓ってお言葉を守ります」と答え、元帥と夫妻は約1時間懇談した。

ヒロ子と野津鎮之助の結婚を報じる読売

 時事新報の記事によれば、元来野津家と末弘家の間で婚約が整ったのは今年春のことで、来春早々に挙式することに内定していたが、野津元帥が重病にかかったため、直方氏はヒロ子とともに上京。

 ヒロ子は客分として野津家にあって元帥の病気の看護に専念していた。元帥もその心根の優しさを感じ、早く一緒にさせてやりたいと常に言っていたようだが、病気が重くなったため、結婚を急ぐことになったという。野津元帥は10日余り後の10月18日に死去。鎮之助が爵位を継ぎ、ヒロ子は侯爵夫人となった。

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退学に責任を感じた乃木大将が仲介したともいわれるが…

 この結婚については、ヒロ子の退学に責任を感じた乃木大将が、親しかった野津元帥に頼み込んだとする説がいまも根強くある。

 しかし、結婚直後の1908年10月8日付國民新聞にはこんな記述がある。

 野津家と末弘家とは同国(薩摩)のよしみがあるだけでなく、元帥の亡兄鎮雄氏(陸軍中将)存命以来、互いに往来し、ことにヒロ子の厳父直方氏と元帥とはほとんど骨肉のように親密だった。鎮之助氏が腕白時代の時、早くも両家の親同士の間でヒロ子を鎮之助の嫁にもらおうという内約が整っていた。

ヒロ子の野津鎮之助との結婚について、両家の親同士で「嫁にもらおう」と内約があったと伝えた國民新聞

 記事には「許嫁(いいなずけ)の間柄」との小見出しも。この方が事実に近そうだ。乃木が結婚を仲介したというのは、数ある「乃木レジェンド」の1つにすぎないのではないか。

当時の女性に求められた「お嬢さま」像

 では、騒動の意味はどうなるだろう。そもそも、応募資格から芸妓や女優を除外した段階で、この美人写真企画は実質的に「お嬢さま・淑女コンテスト」になった。男社会の当時、女性に求められたのは結婚して子どもを産むこと。女学校などを卒業しても、家で花嫁修業をしながら良縁を待つのが普通の「お嬢さま」のありようだった。

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