文春オンライン
文春野球コラム

1993年の荒木大輔の真実と、2018年の原樹理に必要なもの

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/08/25
note

 先日、荒木大輔にインタビューをした。現在は北海道日本ハムファイターズの二軍監督を務める荒木さん。今さら説明する必要もないけど、早稲田実業在籍時に「大ちゃんフィーバー」を巻き起こし、1982年のドラフト1位でヤクルトに入団。プロ3年目となる85年からは当時、弱小時代の真っ只中にあったスワローズのローテーション投手となった。

 しかし、88年シーズン途中で右ひじを故障。ジョーブ博士の執刀を受けると、さらにリハビリ中の無理がたたって椎間板ヘルニアも発症。約4年間の長いリハビリ期間を経て92年に復活したときには感動したものだ。復活登板を果たした9月24日、僕は神宮球場にいたけれど、荒木がマウンドに上がったときの地鳴りのようなざわめきは忘れられない。

現役時代の荒木大輔 ©文藝春秋

25年前の荒木大輔のピッチングから感じたこと

 今回、彼に尋ねたのは、野村克也監督率いるヤクルトと、森祇晶監督率いる西武が激突した「92年、93年日本シリーズ」についてだった。92年秋に復活登板を果たした荒木は、92年は第2戦と第6戦、93年は初戦の先発投手を任されているが、この3試合を中心に聞いたのだ。僕が特に知りたかったのが、93年の初戦についてだった。

ADVERTISEMENT

 西武球場で行われた第1戦の1回裏、西武の攻撃。荒木は1番・辻発彦にいきなり死球を与える。さらに一死後、今度は3番・石毛宏典にもデッドボール。このときの心境を僕は知りたかった。当時の映像を見ながらインタビューを進める。憮然とした表情を浮かべる辻、そして、右手を抑えながら苦悶の表情を浮かべる石毛。いずれの場面でも、荒木の表情に変化は見られなかった。荒木は言う。

「厳しく内角を攻めるというのはチームの約束事だったので仕方ないですよね。すっぽ抜けた球ではなく、厳しいところを突いて投げた球なのでショックも動揺もなかったです」

 荒木は平然としている。結局、この試合でヤクルトは勝利し、彼は勝ち投手となる。続けて、93年の2戦目の試合前の映像を、荒木に見せた。モニターに映っていたのは、この日の試合前に西武ベンチに行き、石毛に前日の死球を謝罪している場面だった。心境を問うと、荒木は淡々と答える。

「別に何も思っていなかったですね。石毛さんには申し訳なかったけど、投げミスだったわけじゃないですから……」

 ここでもやはり、荒木は平然としていた。先日、僕はこの場面について当の石毛にもインタビューをしていた。石毛は言った。

「実はこの死球が原因となって、今でもきちんとペンを握ることができないんです……」

 あまりにも平然としている荒木に対して、僕は石毛の言葉を告げる。どんな反応が返ってくるのか、固唾をのんで見守る。

「えっ、そうなんですか? 初めて知った。今度会ったら、謝っておきます」

 やはり、荒木は平然としていた。

1993年日本シリーズでは初戦の先発を任された荒木大輔 ©文藝春秋

ノムさんが荒木を信頼していた理由

 何ら悪びれることなく、淡々と受け答えを続けている荒木を見ていて、ふと思った。

(野村監督が、荒木さんを初戦に起用した理由がわかった気がする……)

 10代の頃の僕は、「どうして他球団は荒木を打てないのだろう?」と不思議だった。速球は140キロ出るかどうかで、他にはカーブが目立つ程度で、特筆すべき変化球を誇っていたわけではなかった。もちろん、打たれるときにはコテンパンにノックアウトを食らうのだけれど、それでも抑えるときには実に小気味いいピッチングで相手打者を翻弄していた。

 しかし、今となれば、僕は「荒木のすごさ」を理解できる。彼は臆することなく、常に打者の懐をえぐり続けていたのだ。ときには死球となったとしても、彼は打者に真っ向から勝負を挑み、打者を威圧していたのだ。打者との駆け引きにおいて、常に主導権を握っていたのだ。僕は思わず、「荒木さんが初戦に起用された理由がわかった気がします」と告げると、荒木は小さく笑う。

「そうですか? 僕には野村監督の意図が全然わかりません。もしも僕が監督だったら、《荒木先発》は絶対にないですね(笑)」

 結局、この年のシリーズは、初戦を託された荒木が西武打線に内角を意識させたことが功を奏し、前年のリベンジを果たした。石毛は第4戦に欠場するなど、最後まで本調子を取り戻すことはできなかった。初戦に荒木を起用した野村監督、その期待に見事に応えた荒木。いずれも、カッコいいと僕は思った。

文春野球学校開講!