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小林亜星 86歳が語る「ざまあみろ」って思った終戦 13歳の夏

小林亜星 86歳が語る「ざまあみろ」って思った終戦 13歳の夏

作曲家・小林亜星インタビュー#1

note

林光、冨田勲 日本を代表する作曲家と同じ「H組」だった

――終戦直後の思い出で、印象深いことって何ですか?

小林 やっぱり音楽に結びついていることなんですけど、林光くんのピアノのことかなあ。

――作曲家の林光。

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小林 そうです。同じクラスだったんですよ。東京に帰って来て、僕は慶應の普通部に入るんです。ただ普通部の校舎は空襲で焼けちゃっていて、幼稚舎に仮住まいしていた。この体育館にアップライトのピアノがあって、昼休みになるとみんな弾いてるわけ。僕なんか弾いたこともなかったから羨ましかったんだけど、ある日『アメリカ交響楽』っていうガーシュウィンの伝記映画の音楽を披露した友だちがいたんです。でもそれがいい加減な演奏でね。すると林がニタっと笑って、全曲頭から完璧に弾いちゃったの。天才ですよ。さすがだなあって思った。

 

――林さんはオーケストラ作品のほか、合唱曲『原爆小景』やオペラも手がけた方ですが、小林さんは作曲家を目指すときにクラシックの方向に進もうとは思わなかったんですか?

小林 純音楽を目指していた時もあったんです。でも、大学時代に友人のご両親が火事で亡くなってしまって、そのカンパを出すときに僕は500円しか出せなかった。そのときに「金がないのは精神を貧しくする。芸術を追求するよりも、稼がなきゃ、そもそもの芸術も守れない」なんて思いましてね。その思いがずっとあって、当時一番稼いでる作曲家、ドラマの主題歌なんかをたくさん書いてらした服部正さんのところで学ぶことになったんです。

――小林さんはポピュラー音楽の作曲、林さんはクラシックの作曲の道を歩まれますが、シンセサイザー音楽の第一人者・冨田勲も同級生だとか。

小林 冨田くんは高校から一緒で、林と僕と同じH組のクラスメイトだったの。

――のちに日本を代表する作曲家になる人物が3人も同じクラスにいたんですか!

小林 冨田くんは高校に来る前から作曲を学んでいて、コーラスの作曲コンクールで1等とって、高校時代から売れっ子だったんですよ。その後、シンセサイザー音楽の作曲も手がけるようになりましたけど、僕は何しろ電気は弱いので、何のことだかさっぱりわからなかった(笑)。林は高校卒業して芸大行っちゃったし、ほんと、見事にバラバラの道を3人歩みましたよね。喧嘩にならないからちょうどよかった。

 

僕らの世代って1つ年齢が違うだけで、戦後の迎え方が全然違う

――さきほどの『アメリカ交響楽』のお話などまさに、戦後だから聴ける、弾けるようになった音楽なんだと思います。小林さんにとって戦争が終わったという実感は、そういったアメリカの音楽がまた聴けるようになったところが大きかったですか?

小林 そうですね。バンド組んで進駐軍のクラブで演奏して、学校に怒られた思い出ひとつ取っても、戦時中とは別世界の感じですよね。だけど、僕みたいに割とすぐアメリカ文化にかぶれることができたのは「疎開世代」だからだと思います。僕は13で終戦を迎えているから、戦中の記憶は疎開のことが結構大きい。野坂昭如さんは昭和5年生まれだから、僕の2つ上なんですけど、そうなってくると戦中の主な記憶って勤労動員とか、さらに上になると学徒出陣、特攻隊の世代になる。その世代の人たちは、なかなかすぐにはアメリカ文化に馴染むことはできなかったと思います。僕らの世代って1つ年齢が違うだけで、戦争の記憶、戦後の迎え方って全然違ったんですよ。

――世代の微妙な違いを気にとめることって、今でも重要な気がします。

小林 野坂さんとは、俺たちが言わないと戦争ってものの悲惨さ、意味のなさを伝え残すことはできないって、よく話しました。責任っていうかね。だからあの頃の生きにくさみたいなもの、雰囲気だけでもこうやって話しておくことに、何かしら意味があればいいと思っています。末期高齢者の務めですよ(笑)。

#2へ続く)

 

こばやし・あせい/1932年東京生まれ。慶應大学経済学部卒業後、製紙会社社員を経て、作曲家・服部正に師事。レナウンの「ワンサカ娘」など数々の名CMソングを生み出す。童謡『あわてんぼうのサンタクロース』、アニメ『ひみつのアッコちゃん』のオープニングテーマ、都はるみの『北の宿から』など、その作曲作品は多岐にわたる。1974年『寺内貫太郎一家』以来、役者としても活躍。

写真=榎本麻美/文藝春秋 

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