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86歳 小林亜星が語る「僕と寺内貫太郎、それぞれの戦後73年」

86歳 小林亜星が語る「僕と寺内貫太郎、それぞれの戦後73年」

作曲家・小林亜星インタビュー#2

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医学部入ったんだけど、カエルの解剖もダメで焼いて食ってました

――どういうクラブで演奏していたんですか?

小林 WACっていう、看護婦さんばっかりの横浜にあったクラブ。Women’s Army Clubです。そこの専属になっちゃってね。面白いなと思ったのは、一般の兵隊より看護婦さんのほうが位が高いんですよ。みんな看護婦さんに会うと、パッと敬礼しなきゃなんない。

――大学に行きながら、クラブで演奏もする学生時代。

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小林 いやいや。慶應の医学部に入ったんだけど、音楽のほうが面白いから、ほとんど横浜ですよ。それに、僕はおっちょこちょいだから医者には向いてないの。実習のときにいっつも「あっいけね、あっいけね」って(笑)。ソケットでも全然違うところに入れちゃうし、カエルの解剖も焼いて食っちゃった(笑)。みんな呆れてましたね。それで3年になるときに経済学部に移ったんです。まあ、親も諦めてましたね、この不良息子には。

 

――大学卒業してからも音楽は続けていたんですか?

小林 作曲の勉強は大学の時からしていたんですけど、卒業して銀座の製紙会社で営業やってたんですよ。営業の仕事ってけっこう好きで、性に合ってたから成績良かったんですよ。そこで思ったのは「人間、好きなことしないとダメなんだな」ってこと。それで、営業仕事よりも好きな音楽の道に進もうって決めたんです。

――それはまた思い切ったことですね。

小林 まあ、初任給が安かったこともあるんですよ。だって月8500円だったんですけど、学生時代にやってたバンドは1日3000円もらってたんですよ。だから、やってられなくなって。給料も2日で使っちゃうような生活だったし。

――何に使ってたんですか。

小林 何って、それは飲み屋で彼女ができたりさ(笑)。会社の隣にキャバレーがあったの。「赤い靴」っていう。

――いい名前。

小林 でね、会社の窓から女の子たちの着替え室が見えるんですよ。

――漫画みたいですね(笑)。

小林 そのキャバレーに通って、ビブラフォン演奏したりしてね。で、そこの女の子とできちゃったの。また、この女の子が変な子でさあ。夕方、会社に黙って来て、俺の部屋を掃除してくれたりするの。部長が「誰だ、あの女の子」って怪訝な顔するでしょう。そしたらみんなが「亜星の彼女らしい」って。まあ、そういうことで会社に居にくくなったというのもある(笑)。

 

「意外とデブが芸能界にはいないぞ」って、役が飛び込んできた

――そのあと作曲家の服部正について、その縁でNHKなどテレビの仕事をするようになるわけですね。

小林 そうですね。寺内貫太郎をやれって久世さんから言われたのも、当時TBSで3本くらいドラマの音楽を掛け持ちして担当していたからでしょう。ドラマ班の人たちとは、だいたい顔なじみになってましたし。

――しかし、作曲家なのにいきなり連続ドラマの主役というのは、思い切ったキャスティングですよね。

小林 誰が驚いたって、一番驚いたのは僕ですよ。寺内貫太郎のモデルは向田さんのお父さんだそうですが、やっぱり太ってた人らしくて、最初は高木ブーさんにお願いしたんだけど、忙しくて断られた。フランキー堺さんにも打診したけど映画の仕事があるからとかで断られた。意外とデブが芸能界にはいないぞって、スタッフも焦り始めたところで久世さんが僕に頼みに来たんです。「冗談じゃないよ」って逃げたんだけど、「じゃあ、テストするから」って久世さんが猪俣公章だとか、作曲家を4、5人集めてドラマのワンシーンに一緒に出演することになったんです。

 

――小林さんの「貫太郎」が誕生するにあたって、猪俣公章まで登場するとは……。

小林 ただふざけてるようなワンシーンですよ。そしたら久世さんが「うん、大丈夫だ」って。猪俣なんか「うまくいったな、俺たちもなかなか才能あるよな?」なんて言っちゃってさ。なーに言ってんだか。