この中に一人だけジャズを知らない人がいる
おぐら 著書『9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学』(KADOKAWA)によると、ジャズの学校に入学を申し込む時の自己推薦文に〈僕がそちらの学校で学ばせていただく機会を得た暁には〉〈ナンシー・ウィルソンさんが、再びポップチャートでベスト10に入るようなジャズの新たなスタンダードを書くことができると思います。僕にはその力があります〉と書いたって。
大江 書きましたね。当時の素直な気持ちです。ただ、それで入ったはいいけども、実際は全然ダメでした。
おぐら 入学してみて、自分がジャズを知らなかったことを、初めて知ったと。
大江 はい。何も知らないし、何もできなかった。同級生たちとちょっとしたセッションをやるだけで、僕がピアノを弾くと「すみません。この中に一人だけジャズを知らない人がいるせいで、気持ち悪くて弾けないんですけど」って。それで、パッと弾くのをやめて「僕です」って。
速水 それは日本人だから? それとも、ポップスが染み付いているから?
大江 ポップスですね。要はリズムです。音譜の切り取り方、そしてコード感、フレーズ、あらゆる点がジャズではなかった。
おぐら その圧倒的に打ちのめされる経験は、やっぱりショックでしたか? それとも、ワクワクというか、気持ちよかった?
大江 いや、もうパラドックスでいうと、気持ちいいですよ。だって居場所がまったくないわけですから。
「君は歌手でしょ。譜面は必要ない」
速水 そこからどうやって克服していくんですか?
大江 学校がつけてくれるプライベートティーチャーに教えてもらったり、あとは色んなジャンルの家庭教師に習いに行って、違った角度からひたすら聞いて覚えるしかない。とにかく教わりました。耳コピしたものを譜面に書いて持っていくと「君は歌手でしょ。歌がドミナント(得意)な訳だから歌って覚えればいい。譜面は必要ない」とかね。
速水 素人目には、ジャズってフィーリングが大切なのかと思いきや、完全に理論なんですね。
大江 ある意味、ものすごい理論です。もともと僕は文系だけど、ジャズには算数とか数学的な公式が詰まってる。もちろん、日本人というのもありました。こちらは母親が「お酒はぬるめの~燗がいい~♪」なんて歌いながら煮物や酢の物を作っているのを見て育っているわけで。揺れもノリも、何もかもが違っていた。そのうえ英語もできないんだから。
おぐら 学校内でのセッションが盛んで、腕のいい生徒になると、いろんな生徒たちから「セッションしてくれ」って声がかかるのに、千里さんにはまったく声がかからなかったとか。
大江 うん、最初のほうはまったく。1年経ったぐらいでようやく「千里に入ってほしい」と言われるようになって、「ほんとに? やった!」っていう。
速水 日本では横浜スタジアムでコンサートをやっていたのに、落差がすごいですよ。
おぐら 日本で有名なポップシンガーだっていうのは、生徒たちにまったく知られていなかったんですか?
大江 誰も興味ないし、自分から言うこともないし。ただ、何かのきっかけで僕のことを調べた同級生がいて、廊下で「Are you famous in Japan?」って聞かれたことはありました。「3万人の前でコンサートやったのか」って。それで「No,no,no,no. Not that much.」って言うんだけど、「You are famous! You should hire me.」つまり「俺のことを雇え」って。
速水 スタジアムコンサートをやるくらいだから、お金持ってるに違いないと。
大江 ただ、一度そういうことがあっても、2~3日すればまた元に戻って、相変わらず誰からも声がかからない日々が続くわけですよ(笑)。
おぐら リズムのほかに、ポップスのシンガーソングライターの経験がかえって障害になるようなことはありましたか?
大江 ある先生に言われたのは、ピアノを弾いている最中に「私が移動すると、あなたは移動した方向に顔を向ける」「日本でどれだけテレビカメラに追われていたのか知らないけど、そういうサービスはいりません」って。
速水 いい話ですね(笑)。スターならではの悩みですよ。
大江 演奏していると、自然と見られていることを意識しちゃう(笑)。
おぐら あの、こんなこと言うのはあれですけど、よくそこから無事に卒業まで……。
大江 ほんとにね(笑)。でもまだまだ学んでいる途中ですよ。