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「向こうはタイ人。そこを曲がると福建の女」新大久保に多様な人種の外国人が集まる理由とは

『ルポ新大久保 移民最前線都市を歩く』より #1

2021/02/04
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新宿歌舞伎町のベッドタウンとしての大久保という街

 そのきっかけのひとつが歌舞伎町の建設だ。戦後復興の目玉として、新宿では歌舞伎座の建設が進められていたのだ。劇場を中心に文化施設を集め、街を発展させようという計画だった。しかし資金面などで問題が多く、頓挫。映画館はいくつかできたし「歌舞伎」の名前こそ町名に残ったが、歌舞伎座は建てることができなかった。

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 計画の失敗で債務を抱えた地権者たちは、復興の過程で財力を蓄えていた在日韓国・朝鮮人や台湾人に土地を売却する。彼らは、その頃すでに夜の街としての性格も見せつつあった新宿の需要に応えるように、買い取った土地にラブホテルの建設を進めていった。これがさらに、周囲でネオン街の発展を促進させ、歌舞伎町は「東洋一の歓楽街」として爛熟していく。

 こうして新宿が少しずつ復興していくと、労働力が不足してくる。地方から仕事を求める若者がどんどん流入してくるようになる。上京してきた彼らが住んだのは、家賃がいくらか安い大久保だった。新宿で働く人々を受け止めるベッドタウンとして、戦後間もないころからすでにアパートや下宿が立ち並んでいたのである。アパート業は一大ビジネスだったのだ。その土台となっていたのは、鉄砲同心百人が住んだ敷地だ。家主には、商売に敏い在日韓国・朝鮮人も多かった。新宿の発展を反映するようにアパートや小さな住居群はどんどん広がっていき、大久保通りの南北は巨大な住宅街となっていった。

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アパート群が連れ込み宿に変貌した1960年代

 このアパート群が、やがて連れ込み宿に変わっていく。1960年代のことだ。歓楽街として肥大していく歌舞伎町のホテル需要はとどまることを知らず、職安通りを越えて北側の大久保エリアも侵食してきたのだ。労働者の街であり商店街だった大久保に、連れ込み宿がどんどん増えていく。経営者の中には在日韓国・朝鮮人もけっこういたようだ。

 そのいかがわしさが、ある種の人々を引きつける。高度経済成長期に多国籍化した歌舞伎町のホステスたちも大久保に暮らすようになる。タイやフィリピン、韓国や台湾の女たちだった。彼女たちを相手にする小さな食堂や商店が少しずつでき、エスニックタウンの原型のようなものが形づくられてくる。

 そしてバブルに前後して、暗闇に立つ外国人女性が急増したのだ。僕もこの時代、ライターの先輩に連れられて、ときどき大久保を「探検」した。