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“明”より“暗”の野球人生 榎田大樹の物語はなぜ人の心を揺さぶるのか

文春野球コラム ペナントレース2019【対戦テーマ:榎田大樹】

2019/06/22

 今でもやっぱりエノキが気になる。予告先発で彼の名前が発表されれば、少しワクワクするし、試合当日はスマホで1球速報を繰り返し更新……。快投で白星なら安堵し、デジタル表示の「炎上」の結果を目にすると、その場で少しばかり深呼吸しないといけない。

 なぜ、榎田大樹に、こんなにも一喜一憂してしまうのか。西武ライオンズへ移籍した昨年からは担当記者として接することは無くなったのに。今回の執筆テーマが決まり、気合は入っても、なかなか筆が進まない。「ありがとう」や「サヨナラ」でもない、左腕に抱く、このモヤモヤ、フワフワした「何か」を書きたいのに……。締め切り時間だけが迫ってくる中で、何となく自宅で長らく眠っていたスクラップブックを開いてみることにした。

昨季、岡本洋介とのトレードで西武に移籍した榎田大樹 ©文藝春秋

ノートに記してきた「苦闘」の軌跡

 表紙にはマジックで「2011年」と記してある。ちょうどタイガースに入団した1年目。ページをめくれば初登板、初勝利、オールスターでの快投……。思えば、球団の新人記録を塗り替える62試合に登板するなど、プロとして最高の一歩を踏み出していた。それでも、切り取ることのできる「明」の部分は、この1年だけなのかもしれない。タイガースで榎田と接した7年間を振り返っても、「笑顔」は、実はあまり浮かんでこない。むしろ、蘇ってくるのは、表情を歪めながら、悩み戦っている「暗」の部分ばかりだ。

 10年のドラフトで1位指名を受けてから、本人だけでなく、両親や恩師、彼に携わる多くの関係者を取材してきた。そこで、ノートに記してきたのは「苦闘」の軌跡と言える。決して華やかなエリート道を歩んできた選手ではない。それはプロに入っても変わらなかった。そんな決して平坦でない道のりをスクラップブックを手に、少しだけ思い返していた。

自宅で長らく眠っていたスクラップブック ©チャリコ遠藤

 福岡大時代に一度だけ、野球との“決別”を考えた。4年時の春季リーグで立て続けに先発で早期降板。最上級生でエースという看板が、重圧となって襲ってきた。5月の久留米大戦で1回3失点KOされると試合後、鹿児島から福岡へ観戦に訪れていた両親にメールを送った。「自分はエースになんかなれない。もうどうなってもいいんだ。今は野球がおもしろくないから」。異変を察知した父・晃さんは、鹿児島へ向かっていた帰路をUターンして再び福岡へ戻り、寮の近くの居酒屋に息子を誘った。あえて野球の話題は出さない。そんな気遣いを、平静を取り戻した榎田も分かっていた。「こんなところで野球を辞めて、親に迷惑は絶対にかけられない」。エースが再び、這い上がる決意をした夜になった。

 ケガとも無縁ではなかった。宮崎・小林西高2年時の春、マウンド上で強烈なライナーを背中に受けて血行障害とムチ打ちの症状を併発。首にコルセットを巻きながら治療を続け、夏まで試合から遠ざかった。治療院のある鹿児島と寮のある宮崎を毎日、合計8時間かけて送迎してくれた母・きよ子さんへの感謝は忘れない。プロでも、2年目の5月に左肘痛を発症。突然、夜中に肘が「ロックして」全く動かなくなってしまった。痛み止めの薬を毎日、口にして、ごまかしながら腕を振ったものの、限界が来て同年9月に手術を受けた。「もう野球ができなくなるかもしれない」。投げられない苦しさ。投手にとって一番の“地獄”を何度も味わった。

母・きよ子とコルセット姿の榎田 ©チャリコ遠藤