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 私の家には神棚も仏壇もなく、宗教がらみの殺人事件などを耳にするたびに、小さいころから宗教にうさん臭さを感じていた。そんな私が、まさか5年後に本当にお坊さんのノンフィクション(『世界が驚くニッポンのお坊さん 佐々井秀嶺、インドに笑う』)を書くことになるとは思ってもみなかったのだが、この時は「改宗式の見物がてら、久しぶりにインド旅行でも」と気軽な気持ちで飛行機のチケットを取った。

女もいらぬ、金もいらぬ、家もいらぬ

 東京でのインタビューから数か月後、私は約束通り佐々井氏の寺があるインドのど真ん中にあるデカン高原の都市、ナグプールを訪れた。いくら信者が貧しいと言っても1億5000万人のトップなのだから、家はきっと広くて豪華なのだろうと訪問前は思っていた。

 しかし佐々井氏の住まいは、小さな寺の一角にある10畳ほどの宿坊であった。お世辞にもきれいとはいいがたく、シミのついた壁や天井、埃だらけの床や机に食器や書類が散乱している。安物のパイプベッドと破れたソファがひとつ、ドアの取れかかった冷蔵庫に、今にも止まりそうな古いクーラーがガタガタとひどい音を立てていた。

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ナグプールにあるインドラ寺。

 共用バスルームのトイレはバケツに水を汲んで流さねばならず、風呂もバスタブはなく水をかぶるだけ。もっとも夏は気温50度近くにもなるので、お湯は必要ないかもしれないが、さすがにこの設備では80歳を過ぎた佐々井氏にはつらいのではないか。そう尋ねると「ばかもん!」とどなられた。

「僧が贅沢してどうする! 俺が初めてここに来た半世紀前は、金もない、住む家もない、知り合いもおらんかった。住民からは石を投げられ、空き地で寝れば雨に打たれ、犬に追われたこともある。それに比べたら天国だ。あのお釈迦様だって裸足で説法して、最期はベッドの上ではなく木の下で亡くなったんだ。僧たるもの、女もいらぬ、金もいらぬ、家もいらぬ。俺だって最期はインドの大地に野垂れ死ぬ覚悟よ! そう書いておけ!」

泣きながら駆け込む人妻も

 佐々井氏の日常は、静かな寺で手を合わせ檀家をまわる日本の老僧とはだいぶ違う。全国各地で開催される仏教の祭典や改宗式に駆けずり回り、その合間をぬって地元の貧しいインド人の家から冠婚葬祭のお祈りを頼まれれば出かけていく。

 たまに寺にいてもゆっくり体を休める暇はない。部屋の前には陳情の人々が朝から並んでいるからだ。国費留学していた娘の送金が止まってしまったと涙ぐむ中年男性や、ダンナが女と駆け落ちしたと泣きながら駆け込んでくる人妻、はたまた呪いをかけられたと悪魔祓いを頼んでくる一家、結婚相談に安産祈願、ただの偏頭痛までその相談は千差万別だ。

娘に悪魔が取りついたと泣きついてきた家族の家へ。なぜか孫の手で娘の頭を木魚かわりに叩く佐々井氏。

「それ、日本だと警察か弁護士か医者に言うけど?」と首をひねるような、ありとあらゆる庶民の悩みを佐々井氏は怒ったり喜んだりしながら解決していく。その対価は数百円のお布施ならいい方で、ポテトチップス一袋の人もいれば、時には無料で引き受けることもある。日本でも「駆け込み寺」という言葉があるくらいだから、昔のお坊さんはそんなよろず相談を引き受けていたのかもしれないが。

「はあ~、俺は毎日、生き血をすすられている気分だ」と疲れ果てぐったりソファに沈み込む佐々井氏とは対照的に、インド人たちは足取り軽く部屋を出ていく。そして口々に「ササイはマイゴッド」「俺たちを人間にしてくれた」「貧しい人を決して見捨てない」「生きることに希望が持てた」と顔を輝かせて言うのだ。