第二次大戦後、中国大陸で捕虜となった60万人もの日本人がソ連軍によって連行され、シベリアの収容所に抑留された。厳寒と飢餓のなかで強制労働を課せられ、5万人以上が亡くなった。

 元一等兵の山本幡男も、そのうちの一人。違っていたのは、山本がのこした6通の遺書が敗戦から12年後、遺族のもとに届けられたことだった。彼の遺書は、山本を慕う仲間たちによってソ連の厳しい監視網をかい潜り、日本に持ち込まれていた。その驚くべき方法とは──?

 極寒、飢え、重労働に屈しなかった男たちの物語。シベリア抑留中に起きた奇跡の実話を発掘した大宅賞受賞作が、このたび名手・河井克夫によってコミカライズされた。

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3年ぶりの帰国を目前に、収容所へ逆戻り

 1948年、日本人捕虜たちを乗せた帰還列車は、バイカル湖へと差しかかっていた。そのなかに、元一等兵の山本幡男と松野輝彦もいた。二人は同じ収容所で寝食を供にした仲間だった。山本は元満鉄調査部出身で、ロシア語が堪能だった。あと少しで帰還港へと辿り着く直前、列車が停止し、ソ連軍の将校が乗り込んできた……。

 
 

 「名前を呼ばれた者は列車を降りろ!」3年ぶりの帰国を目前に、山本は列車から降ろされてしまう。雪のなかを連行される山本の後ろ姿を見ながら、松野は収容所(ラーゲリ)で過ごした日々を回想する……。

 1946年、山本、松野ら日本人俘虜1000人はウラル山脈の麓、スベルドロフスク収容所へと連行された。「1本の黒パンをめぐってつかみ合いの喧嘩になった」収容所での過酷な日々。山本は松野を「勉強会でも始めませんか」と誘う……。

 
 
 

 勉強会を始めた山本を、将校たちは「山本はアカだ」と敵視する。「帰国する時に海に放り込んでやる!」

 

 収容所ではアクチブ(活動家)を中心に「民主運動」が始まり、軍隊時代の上下関係は一変する。「やがて日本は16番目のソ連になる!」とソ連軍の将校は宣言する。一方、戦時中に山本幡男がスパイだったという噂が所内で流れ始める。山本は戦時中、関東軍の特務機関で働いていた。しばらくして、山本の姿が収容所から消えた……。