弟のジャニー喜多川とともにジャニーズ事務所を創業したメリー喜多川は、クリスマスのきょう、12月25日が誕生日である。ただし、本人はインタビューで「私、誕生日会なんてやってもらったことないですよ。年取るの嫌いだから」と語っており(『週刊文春』2015年1月29日号)、年齢も公表していない。
姉弟の父は真言宗の僧侶で、布教のためにアメリカに渡っていた。メリーが生まれたのもロサンゼルスだが、1933(昭和8)年に一家で帰国。戦後の一時期、OSK(大阪松竹歌劇団)に在籍した彼女は、占領軍のキャンプの慰問に回った際には、流暢な英語で司会を務めたという(『週刊文春』2016年9月22日号)。このあと姉弟は再び渡米。在米中にジャニーが日本から来る芸能人の世話をしたことが、ショービジネスに携わるきっかけとなる。
ジャニーズ事務所の創業は1962年。ジャニーの主宰していた「ジャニーズ少年野球団」から結成された初代ジャニーズの真家ひろみ・飯野おさみ・あおい輝彦・中谷良が最初の所属タレントとなる。このころメリーは、東京・四谷で作曲家の服部良一の夫人とスナックを経営していた。店の客には、エンターテインメント界、また政界や財界の大物も多かったという。のちにメリーが結婚する作家の藤島泰輔ともこの店で知り合った。現在、ジャニーズ事務所の副社長を務める藤島ジュリー景子の父親である。やがてジャニーの仕事が多忙になると、メリーは店を畳み、経理面や衣装を一手に担うようになった。
同事務所からは、初代ジャニーズ以降、フォーリーブス、さらに郷ひろみと次々と人気タレントが生まれた。だが、事務所を法人化したのと同時期、1975年には郷をほかの事務所に引き抜かれてしまう。メリーにとってそれは精神的にも経済的にもつらいことではあったが、それでも先輩のフォーリーブスより待遇を引き上げてまで、郷を引き止めようとはしなかった。そうでなければ内輪のけじめがつかないとの判断だ。こうした冬の時代を乗り越え、1980年代初め、田原俊彦・近藤真彦・野村義男の「たのきんトリオ」のブレイクで、ジャニーズは再び浮上する。その後の躍進はいうまでもない。
“ジャニーズの女帝”が見せた涙
昨年のSMAP解散にいたる過程であらためて注目されたように、メリーに対しては毀誉褒貶がある。だが、彼女の言動がタレントたちへの深い思いから出るものであることは間違いない。先に引用した2015年の『週刊文春』のインタビュー中には、親しかった近藤真彦の母親が亡くなったとき、今後は自分が彼の面倒を見なければならないと思ったと語りながら涙を流す一幕もあった。ジャニーの哲学は「来る者は選ぶ、去る者は追わず」だという。メリーもそれは同じはずだ。それゆえ、多くの別離も経験してきたことだろう。ときに冷徹ともいわれる“ジャニーズの女帝”は、孤独の人であるのかもしれない。