社会はしばしば天才に夢を見る。そのくせ本当に天才が現れた時、社会は彼らを排除しようとする。現状に慣れた人々にとって天才とは脅威でもあるからだ。
本書は十五世紀から始まったルネサンス時代と二十一世紀の類似点を比較しながら、天才たちの偉業によって社会が一変する可能性を説く。著者によれば、印刷技術の発明とインターネットの普及、交易の発達とグローバル化など、イノベーションにより世界が急速に変化するという点において、ルネサンス期と現代には多くの共通点があるという。
そのような時代には、天才が大挙して生まれる可能性がある。天才は、多様な知性が交流し、知が集積することで誕生するからだ。レオナルド・ダ・ヴィンチも、グーテンベルクも、孤独な天才ではない。彼らは、同時代人との交流や、知のアーカイブがあり初めて偉大な成果を残せた。
だが、画期的な発明が、必ずしも社会からすぐに受け入れられたわけではない。グーテンベルクの活版技術も、初めは全く流行しなかったらしい。数冊の写本を作るだけなら、人力のほうが早いからだ。のちに大ヒットする聖書も、専門家の指導なしでは読めない専門書と考えられていたので、大量印刷をするという発想さえなかった。
革新はしばしば不敬とも受け取られる。コペルニクスの宗教裁判が有名だが、中世ヨーロッパで最も重視されたのは宗教。芸術でもリアリティなんて必要とされなかった。今では当たり前の「見たままに描く写実的な絵」も、宗教物語を伝えることが一番の目的の中世芸術の前では不敬扱いされた。
しかし現代人も彼らを笑えない。たとえば遺伝子を改変して新しい人類を誕生させるのは許されるだろうか。新技術によって、長寿で賢い、より平和的な人類を生み出せるとしたら、それに反対する理由は? 「生命に対する冒涜」という反論は、中世人と同レベルと見なされても仕方ないのではないか。
僕たちはつい「心安らぐ神話」を信じてしまう。だが、新しい技術には臆病なくせに、既存の不平等はあっさり無視したりもする。公教育への投資の必要性、世代間の貧困問題の解消など、すべきことは無数にあるにもかかわらず。
本書のポイントは、決して一方的な新時代礼賛の書ではないこと。IT化が大して人々の所得に影響を与えていないなどのデータもしっかり示す。ある経済学者によれば、コンピューターが人々の所得に与えた影響は、今のところ水洗トイレよりも小さいのだという。
社会の変化には必ず両面がある。そんな時代に何をしたらいいのか。天才をどうしたら生み出せるか。天才以外の凡人はどうしたらいいのか。そのヒントが詰まった一冊だ。