「加齢を予防することができれば、多くの神経変性疾患の発症を抑えられる可能性があります。私たちの研究では脳に局所的にiPS由来神経前駆細胞を移植することで、脊髄損傷や脳梗塞といったこれまで治らなかった脳と脊髄の疾患を回復できることを明らかにしました」
ここで重要なのは、「モノの老化と細胞の老化はまったく違う」ということだ、と岡野教授は解説する。例えば、割れたガラスをもとに戻すことはできないが、細胞はエピジェネティックスの状態を正常に戻すと、その細胞自体が「赤ちゃんの状態に戻る」からだ。iPS細胞も同様に、古い皮膚から採取した細胞に山中四因子を導入してリプログラミングすると、細胞は生まれたての時に戻る。
では、細胞が「初期化」されるのであれば、その機能を利用して脳の神経細胞自体を増やすことはできないのだろうか。
この問いに対して、慶大岡野研究室(藤田医科大学兼任)の加瀬義高特任講師は次のように解説する。
「神経細胞の研究では、それを人工的に新しく増やそうとすると、マウスでは記憶を失ってしまう。脳の神経細胞を保護する薬を高容量で投与すると、確かに神経細胞が増え、新規記憶がよくなるのですが、かつて覚えていたことを忘れてしまう。新しく作られた回路が、もとにあった回路を侵食してしまうからです。ですから、新しいニューロンを作るという意味での介入を脳に行うことは、人の記憶の連続性を失わせてしまう可能性もあります。今ある神経細胞を維持する戦略が現実的かもしれません」
アミロイドβの増加をおさえる
「脳の老化は分かっていないところが確かに多い」
東京大学大学院薬学系研究科で認知症の研究に取り組む富田泰輔教授は話す。
脳が他の臓器と異なり特殊なのは、神経細胞がほとんど増えないことだ。年を重ねる中で神経細胞同士がつながったり、配線を組み替えたりする作用が行われるが、細胞の数自体は小学生かそれより以前に出来上がっている。
「基本的に神経細胞が老化していくことが認知機能に影響すると考えられています」
このような特殊な脳の老化は、治療できる可能性があるのだろうか。
そのことを知る上でまず前提となるのは、人の記憶力が老化によって下がっていくメカニズムだ。脳の神経細胞はシナプスによって互いにつながりを強めたり、つなぎかわったりすることで記憶を司っている。神経細胞の数が変わらなくても、その回路のつながりが老化によって弱まると、記憶力が衰えていくことになる。もしその働きを維持することができれば、「老化を抑えられるのではないか」と富田教授は解説する。
そこであらためて理解しておきたいのが、認知症が起きるプロセスだ。厚労省の推計では2020年の認知症患者は602万人で、65歳以上の16~17%。それが40年後には850万人、4人に1人となると推計されている。
認知症は老化とともに数が増え、老化関連疾患と言われている。つまり認知症を治療することは、老化の治療ともつながる。そのような認知症の中でも7割近くを占めるのが、アルツハイマー型認知症である。
アルツハイマー型認知症は、脳にアミロイドβやタウといったタンパク質が蓄積することで引き起こされる。アミロイドβの蓄積を減少させる認知症治療薬のレカネマブが、今年米食品医薬品局(FDA)の承認を受けたことは大きなニュースとなった。
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ノンフィクション作家・河合香織氏による「老化は治療できるか 脳の老化を阻止せよ」全文は、月刊「文藝春秋」2023年6月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。
脳の老化を阻止せよ