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44歳で無理やり離縁させられ家康と再婚するも、4年後に死去…「人権無視」の兄・秀吉に翻弄された旭姫の悲劇

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genre : ライフ, 歴史, テレビ・ラジオ

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「人生50年」と言われた時代に44歳で家康と再婚

ちなみに『改正三河後風土記』は、旭の前半生についても簡単に記しており、父は織田家の同朋衆・竹阿弥であること、朝日村で生まれたので「朝日君」と呼ばれたことなどが記されています。秀吉が旭を夫と離縁させてまで家康に嫁がせたことについて「そこまでしたのは、秀吉が家康を恐れていたからだ」と思う人もいるかもしれません。

しかし、それは間違いで、前述のように、秀吉と家康には圧倒的な軍事力の差がありました。秀吉は家康を(多少の損害は出るにしても)軍事的に屈服させることは可能でした。秀吉に臣従するため上洛する際、家康は「私一人が腹を切って、多くの人の命を助ける」(江戸時代初期の旗本・大久保彦左衛門の著作『三河物語』)と重臣の前で決意表明しています。上洛しても、秀吉から急遽切腹を命じられる可能性を家康は意識していたと思われます。家康は弱い立場にあったのです。

血のつながった者も容赦なく駒として使う秀吉の強引さ

その家康を、軍事力を使わずに、懐柔し、臣従させる(秀吉は、軍事力を使わず、損害を出さずに、家康を屈服させることを選択したと言えます)。そのための「道具」として、旭は使われたと言えましょう。再婚当時、旭は44歳でした。

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秀吉の手法は、したたかで、強引かもしれませんが、秀吉はそれくらいのことは難なくやる男です。例えば、尾張国に、秀吉と血縁関係にある者(姉妹)がいると聞いた彼は、その姉妹(貧しい農民)に「然るべき待遇をしよう」と言って、強引に京都に呼び寄せたことがあります。姉妹は親族と共に、京都に出向いたようですが、彼女たちを待っていたのは死でした。姉妹は京都に入るとすぐに捕縛され、首を刎(は)ねられたのです(宣教師ルイス・フロイス『日本史』)。

秀吉は「己の血統が賤しいことを打ち消そうとし」て、そのようなひどい所業をしたと考えられています。そのようなことを平気でした秀吉が「異父妹」の旭を離縁させて家康に嫁がせるくらいはやるでしょう。