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44歳で無理やり離縁させられ家康と再婚するも、4年後に死去…「人権無視」の兄・秀吉に翻弄された旭姫の悲劇

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genre : ライフ, 歴史, テレビ・ラジオ

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切腹覚悟で大坂へ行った家康は「旭姫は助けて返せ」と言った

さて、家康と旭姫の祝言は、天正14年(1586)4月の予定でした。が、家康が秀吉に祝言の御礼言上のため遣わした使者が、秀吉の知らない人物だとして秀吉は立腹。秀吉は「(家康の重臣である)酒井忠次・本多忠勝・榊原康政の何(いず)れかを派遣するよう」に徳川方に求めます。秀吉の「無理難題」に家康は、和睦破棄を覚悟しますが、織田信雄の説得により、思いとどまります。秀吉への使者は、本多忠勝が遣わされることになりました。こうした紆余(うよ)曲折があったため、旭姫の輿入れは、5月14日となったのでした。家康は秀吉の義理の弟となったのです。

秀吉は家康が上洛する決意を固めたと聞いて、母・大政所まで三河に下向させます。家康は上洛の際、「もし私が(上洛後)腹を切ったならば、大政所に腹を切らせよ。しかし、女房(旭)は助けて帰せ。家康は女房を殺して腹を切ったと言われたら、世間の聞こえも良くない。決して、女房に手を出すな」(『三河物語』)と家臣に言ったとされます。これは、旭への愛情から出た言葉ではなく、家康の名誉を傷付けないための方策と言えましょう。

旭姫は家康と再婚してわずか4年後、聚楽第で亡くなった

上洛すれば殺される可能性もあった訳ですから、家康としては上洛するか否か迷うところもあったでしょうが、拒否すれば秀吉軍との戦が始まり、多くの将兵や民衆が死ぬことになる。それを避けるために、家康はいざとなれば「私一人が腹を切って、万民を助ける」(『三河物語』)との思いを固め、上洛の途についたのです。大坂に到着しても、家康が秀吉に殺されることはありませんでした。

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さて、家康の正室となった旭ですが、天正18年(1590)1月に病死してしまいます。家康に嫁いでからわずか4年後のことでした。前夫と離縁させられた精神的ショックがたたり……というよりも、何らかの病となり、亡くなったのです。