笠置は考えた。まず、先輩にかわいがられること。つぎに、休演者が出たときすぐ代役がつとまるよう、舞台袖(そで)で目を皿のようにして全部の役柄を覚えるようにした。
もちろん、楽屋の雑用も人を押しのけてまでこなすようにした。その結果、休演者が出れば、先輩たちが文芸部にかけあって、笠置を推薦してくれたのである。こうなると、同期などから「やっかみ」を買うこととなる。さかんに陰口をいう者もいた。しかし笠置は、いっさい気にしなかった。
それもこれも、自分を入団させてくれた松竹の音楽部長・松本四郎への恩義に報いるためであり、父母にも申し訳を立てたいからだった。
笠置本人の語るところでは、同期生が廊下ですれ違って挨拶(あいさつ)してきても、これを無視することがあった。筆者の考えるところ、これは笠置の意地悪な気分がすることではなく、同期生や後輩など、まるで眼中になかったのである。とにかく早く一人前になること、それが先決だった。
芸名は「三笠静子」だったが宮家と同じ名前になり変更
笠置の初舞台は昭和2年(1927)の「日本新八景おどり」のレビューで、岩に砕ける水玉だった。芸名は近所のもの知りが、三笠静子(みかさしずこ)とつけてくれた。
踊りの素養があるため舞踊専科に配属されたが、笠置は後年、自分の小さな体から舞踊は不利だと悟り、歌に転じることとなった。
それにつれて芸名も、笠置シズ子と改めることとなった。一つ大きな理由として、天皇陛下の弟宮である澄宮(すみのみや)が「三笠宮家」を創設したため、それに配慮してのことでもあったという。
「好かんな、あの子、少女歌劇の夢も美もあらへんわ。ガサガサで、えげつのうて、厚かましうて……」(自伝より)
笠置はしょっちゅう声をつぶしていたが、どうやら彼女の舞台を観て、一部のファンの中には、そんなことを思う人もいたようである。
入団当初、カン高い声でがむしゃらに歌っていた笠置だけに、年じゅう声をつぶしていた。のどに包帯を巻いているのがトレードマークのようになっていた。