〈石が混入していないコメを安心して食べられる。それが当たり前になったのは、1961年に一つの発明があったからだ。

「石抜き機」。いまや日本中の精米工場や米穀店に広く普及したこの機械を開発したのは、東洋ライス(和歌山市)代表取締役社長の雜賀慶二氏(91)である。水で研ぐ必要のない「無洗米」や、白米よりも栄養価が高くて美味しい「金芽米(きんめまい)」といった米穀商品も、その手によるものだ。

 一連の発明は機械の声を聞き、コメの気持ちになりきることで生まれた。対象物を日々観察し、閃きを得る。そんな鋭敏な感性に基づく独特の開発手法は、ないない尽くしで日々の食糧にも事欠いた戦後の生活の中で身に付けたものだった。〉

――どんなお子さんだったんですか。

雜賀 「あかんたれ」(「ダメなやつ」という意味の方言)ですわ。「おまえの声より、蚊がブーンと唸ってる声のほうが、よく聞こえる」。周りからそう言われるくらい声は弱々しかったし、態度は女々しかった。

 外見も貧相だったので、「おまえはほんまに骨皮筋右衛門や」と、両親からよう呆れられました。これまで太ったことないし、ものすごく病弱やったしね。亡くなった妻には「あんたは病気のデパートや」と言われたもんですわ。

――ご実家は精米機の販売店の雜賀商会。食糧には困らなかったのでは。

雜賀 戦時中の平均的な家庭に比べたら非常に恵まれてたわな。親父は商売下手やったけど、当時の物資不足が幸いして、家業は結構繁盛してた。お客である米屋が精米機の部品を「売ってください」って買いに来る。その時分、銀シャリっていうて、一番値打ちものやった白米を持ってね。このころが最も幸福な時期やった。

 一転したのは、終戦が近い1945年7月9日。和歌山の市街地が空襲で丸焼けになり、我が家も自宅と蔵が被災した。

 当時、私は国民学校の6年生。田舎に住んでた母方の祖父の家にいました。祖父が病気で、その日訪ねて行ったんですよ。晩に叩き起こされて、外に出てみると、市街地の方角の空が真っ赤になってた。爆撃機の「B-29」が、編隊を組んで焼夷弾を落としながら旋回している。下から火炎の照り返しを受けて、赤く染まった巨大な機体が、ピカピカ光ってた。

 翌日、一人で家に残っていた親父が、ボロボロの服を着てよたよたと歩いて来ました。「家も蔵もみんな焼けてしもうた」とこぼしたら、土間にへたり込んでね。ものすごいショックを受けたんでしょう。「蔵が、蔵が」と盛んに言うてたね。代々続いた家やったから、蔵にいろんなものが残ってたんやろ。そこからが不幸の始まりでしたな。

和歌山市にある東洋ライス本社。精米だけでなく、機器の設計、製造、組み立てまで自社で行う。

腹を満たすためにうなぎと知恵比べ

〈精神的に追い詰められ、仕事が手に付かなくなった父・秀夫。一家5人の命運は小学6年生の肩にかかった。〉

雜賀 それから2年半は本当に苦しかった。いま振り返れば、50年、60年くらいの長さに感じます。

 親父は空襲でおかしくなったまま、一向に頼りにならんかった。焼野原のなか、家があった場所に戻るのに付いて行ったら、下向いて黙々と歩いて、落ちてるものをなんでも拾う。布の切れ端やら、焼けて真っ茶色になった釘やら。親父はそれから毎日、鉄板や鉄くずを拾って帰って、それを朝から晩までハンマーでチャンチャンと叩いてる。働く意欲がないんですわ。イライラして、お袋と口論ばっかりしてる。

 腹減るし、シラミに噛まれるし、暑いし。祖父の家にいたうちはまだ良かったんですが、知り合いが貸してくれた家へ転居してからが大変だった。親父はあてにならん。祖父は亡くなる。お袋は生活のために行商に出てたね。

 私は3人兄弟で、3歳上に兄が、8歳下に弟がいるんですよ。雜賀家は長男第一主義。だから兄貴には勉強させてた。かたや次男の私には働けと。弟は年が離れていたしね。我が家で当時としては貴重品の卵がたった1個だけ手に入ったことがあった。母は兄と弟に半分ずつ与えて、「慶二は我慢しなさい」と言う。その時の黄身の鮮やかな色は忘れないね。

 食うことのみを考える苦しい日々やった。人間、そういう状況になったら、大人も子どももなく、何でもやるんです。とはいえ人のもんに手をつけるわけにいかんから、藪や道端に生えてる木の実を取ったり、川にいるうなぎやナマズ、飛んでくる野鳥を片っ端からとっ捕まえたりしたね。自分で捌いて、調理して食べたんです。

――たくさん捕れたんですか。

雜賀 うなぎなんかは一度に5、6匹罠にかかった。夜な夜な天井を見ながら必死に考えて工夫したら、皆がビックリするぐらい、ぎょうさん捕れるようになったんだわ。

 大事なのはうなぎの気持ちになること。エサは好物のタニシで、砕いて罠に入れておく。最初はにおいが漂うからうなぎが寄ってくるけど、薄まると寄り付かなくなる。何とかにおいをもたせたいと、罠の中に小部屋を作ってタニシを入れて、においがチビチビ出るようにした。野鳥が相手なら、野鳥の立場になって、どうすりゃいいか考える。そうやって、捕れるようにするわけや。

――相手の気持ちになるというのが、発明の原点なんですね。

雜賀 そう。物事を新しく考え出すときには、手本もなく、誰も教えてくれない。完全に無で、何もないところから知恵を磨くうちに、発明が生まれる。うなぎを相手にしたころは論理立った考えはなかったけど、自然と身についたんかな。厳しい生活環境で知恵を鍛えられたことが幸いしたんやろう。

中学を卒業後、15歳で起業家に

〈一家は疎開先の家から立ち退きを強いられ、和歌山市内の家があった場所にバラックを建てる。中学卒業と同時に家業に入った雜賀氏は、修理の腕がいいと周囲から認められるようになった。後に「精米機の名医」という異名をとることになる。〉

――15歳で精米業を興しますね。

雜賀 大それたことではなくて、生活のためにやるしかなかった。新制中学のクラスには生徒が50人いて、高校にも夜学にも行かないほんまの中卒は男では私一人だったね。

 家業のほうは機械の修理の依頼が入っても、親父はなかなか対応しない。私より1年早く社会に出た兄貴も心身が不調で、「スランプ」と言うては家でゴロゴロしてた。私がやらなければしょうがない。

 修理の仕方は誰も教えてくれないから、機械の身になって考える。すると、どうして壊れたかがわかってくる。うなぎの気持ちになるのと同じですよ。苦しかったころに養った知恵が、91歳のいまでも活きてる。私の大きな武器やね。

――その後、ご自分で商売を始めますね。

雜賀 私の人生で、金を儲けるために働かなあかんと思って何かやったのは、このときだけやね。

 お袋が明けても暮れても、生活やっていけんと泣き言を漏らすんです。帳簿を調べたら、ひどい状況やった。当時はデフレで不景気やから、機械が売れるのはたまにだけ。おまけに両親はメーカーに金を払わず、みんな生活費に使うとる。収入を得られず未納額が膨らむだけでは、早晩経営は行き詰まる。

 儲けになるのは機械の販売と修理だけだった。そうは言うても、機械を壊しに行くわけにいかんから、積極的に金が入る方法を考えた。社会が必要としてることをせなあかん。自分の狭い行動範囲でこれやと思ったんが、少量でも精米を請け負うことやった。

 当時はコメが配給制で、1カ月に3、4回、搗き方が不十分な玄米に近いコメをちょっとの量だけ配給するんです。精米所の機械は大きいから、配給のコメを持ってこられても、少な過ぎて搗けませんと断わっていた。機械を直しに行く先でそんな問題を見てきた。

 私は少量のコメでも工夫すれば搗けると気付いたんで、三坪の小屋を建てて、うちにあった中古の精米機を据えました。15歳の少年が、電力会社に配線を引いてくれと頼んで、精米業を始めたわけです。ところが、お袋が反対してね。

――どうしてですか。

雜賀 「うまいこといきゃあいいけど、失敗したらどうなる。今よりもっと大変なことになるやないか」って。「わしはもうやる!」と突っぱねて、準備は自分でやったんです。

 そんなお袋も最後には手伝ってくれた。家族ぐるみで習字用の紙に「お米一升から搗きます」って墨で書いて、ご飯粒を糊の代わりにして、電柱に貼りに行ったね。

 開業初日の朝のことは、今でも忘れない。私は夜型で、朝寝坊。朝早く叩き起こされて、「お客さん来てるで」って言われたんで、外を覗いたら5、6人並んでた。えらいこっちゃと、顔も洗わずに精米して空き箱へお金を入れていったら、みるみるうちにいっぱいになった。

 その晩にお袋が裸電球の下でお札を広げて、コインを揃えて、算盤はじきながら数字を書いてるんですよ。泣き言ばかりだったのが嘘みたいにニコニコしてね。嬉しかった。自分の幸せをそのときほど感じたことがないくらいやった。

 間もなく農家から麦を仕入れて、精麦も始めたんですわ。食糧難で麦を買う人が多く、人気が出て利益率も高かった。商売が活況を呈すると、家族の調子も上がってきて、母や兄、ときに父も手伝ってくれた。それでも手が足りずに、20歳の女性を手伝いとして採用したね。

――精米業はしばらく続けたんですか。

雜賀 1951年に国の方針が変わって、自然消滅しました。配給制度がなくなり、コメを正規販売する卸と小売店が次々にできた。彼らは精米機を必要とするので、その販売業が忙しくなったんです。

当時の東洋精米機製作所。間口3間の小さな店舗だった。

脳天を直撃する“石”という厄介物

〈米屋からは、機械の修理だけでなく、改良も頼まれるようになった。その一つが、不可能とされていた石抜き機の開発だ。〉

――当時のコメは石が混入しているのが当たり前でした。

雜賀 石が混入していない「無石米」を製造することは無理と言われてましたからね。大きい石や小さい石はふるいで取れるけど、米粒と同じぐらいだとどうしようもない。ごはんを食べて、バリッて石を噛むのが日常。勢いよく噛んだら、脳天にガーンと衝撃がくるんですわ。米屋は、お客さんがよう怒鳴り込んでくるって困ってました。石が入ってて、おじいちゃんの歯が折れたとか。

――そんなに深刻だったんですか。

雜賀 ガラスの板にコメを広げて、裸電球で下から照らして、石を手で拾う米屋もいたけど、取りきれない。「何とかならんか」ってよく言われました。

 当時、「石選り機」があったけど、大きい機械の割に石を完全に除けない。コメと同じくらいの大きさの石は、技術的に難かしかったんやね。もっと精度の高い製品をつくってくださいってメーカーに頼むと、それは無理やと。「日本の歴史は長い。コメの石を取れるんなら、とっくにそういう機械はできてる。無茶なこと言うな」ってわけ。

 私は、自分が石抜き機を造れるとか、それでメーカーになるとかまったく思ってなかった。開発したんは、米屋やお客さんがあんだけ困ってるから、何かせんと申し訳ないという気持ちから。

〈それから石の気持ちになったり、コメの気持ちになったりして、アイデアを温めていく。コメと石の比重差と摩擦系数の違いを利用し、石を完全に取り除ける石抜き機を26歳の若さで開発した。〉

さいか・けいじ
1934(昭和9)年和歌山県生まれ。中学校卒業後、家業の精米機販売の仕事に就く。1961(昭和36)年、コメの中から石粒を取り除く「石抜撰穀機」を発明。以来、60年以上にわたり、精米機器およびコメやその加工に関する研究など技術発明に従事。その代表的な発明品には「トーヨー味度メーター」「BG無洗米」「金芽米」「金芽ロウカット玄米」などがある。

――時間を掛ければできるかも、というくらいの気持ちだったのですね。

雜賀 やり出してから1年ぐらいで、石抜き機が一応できたんですよ。ヒントになったのは、小学生のころ買いに行かされた鰹の削り節。紙箱に入ってて、セロハンの透明な小窓からフワッとしたのが見えて、いかにもおいしそう。ところが家で皿に出すと、硬いものも混じっていて、全然別物に見えるんやね。調べてみたら、箱に削り節を入れて下から叩くと、比重の違いで軽いものが浮き上がるんですわ。

 石抜き機もこの原理でいけると閃いて、コメを網目の上で揺すってみた。それだけではダメで、しばらくは失敗続き。下から風を当てたり、その角度を変えたりと改善を重ねて、完成させたんや。

 1961年に石抜き機の発表会を開くことにして、全国の同業者に招待状を送ったんです。5、6人来るつもりで用意したのに、当日100人以上がワーッと来た。間口三間の狭い店やから、外へ人が溢れてしもうて。口の悪い人が大きな声で言うんです。「わしは人の頭見に来たんちゃうぞ」と。それで旅館へ急遽、場所を移してね。そこで本格的にお披露目をやった。

 その後の宴会が盛り上がらなくて。新製品の発表の宴会はふつう、芸者さんを呼んでどんちゃん騒ぎですわ。だけどその日は全く違ったんです。参加者はお通夜みたいにしゅんとして、料理を黙々と食べるだけ。お酒を注ぎながら「いかがですかね」と聞いても、「うーん」と唸って反応がない。

 これは失敗やったなと、暗い気持ちで帰ったんですよ。ところが、翌朝店に行ったら、人が群がってる。

石抜き機で和歌山一の納税者に

――それは、びっくりしますね。

雜賀 すごい製品で、ライバルに取られるとまずい。なんとかして地域の総代理店になりたい。みんなそう考えて、前日は宴会の飯の味もわからんかったらしい。大阪から来た人は一度金を取りに戻って、札束を抱えて店に来て、「これでわしに大阪は任せえ」とか言う。

――まさにここで、メーカーになったわけですね。

雜賀 そう。メーカーになる覚悟も何もなかったけど、自動的になった。

 発表会のタイミングで、スランプやった兄の調子が上がってきて、店に集まった皆さんにこう言って、帰ってもらったんです。

「ご覧のように我々、メーカーでも何でもございません。皆さん方が契約したいと希望を持ってくれるんやったら、必ず公平公正でやりますから、今日は安心して帰ってください」

 私はボチボチやろうと思ってたら、えらいことが起きたんですよ。銀行から、どこそこから送金がありましたと電話が来て、すごい額がどんどん振り込まれてくる。

 振り込み主に電話すると、開口一番、「おまえのところは、ひどいやないか」と怒ってきてね。「公平公正でやると言うけど、とんでもないやないか。振り込んできた額の大きさとか早さとかで、代理店決めてるやないか」と。「そんなの知らんで」と反論しても「嘘つけ」とか、「本音で言え、本音で」とか、凄むんですよ。「お金は返す」って言うても、「受け取らん」と。だからどんどん製造していかないけなくなった。

昭和37年、石抜き機の大ヒットで組み立て作業が間に合わず、近くにあった紡績工場の建物を借りた。

――それくらい需要があったわけですね。

雜賀 あのころは、国税庁が高額納税者の順位を出してたでしょう。発売して間もなく、個人の納税額が和歌山で一番になったんだから驚いた。

〈世紀の発明である石抜き機が飛ぶように売れ、億万長者になった雜賀氏。だが、儲けを独り占めすることに関心はなかった。〉

〈以下次号〉

くぼた・しんのすけ
1978年福岡県生まれ。2004年日本農業新聞に入社。国内外で農政や農業生産の現場を取材し、フリーに。2024年『対馬の海に沈む』で第22回開高健ノンフィクション賞を受賞する。

提供 東洋ライス株式会社

photograph:Shiro Miyake
design:Better Days

出典元

文藝春秋

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