「いい酒場には“気配”がある」
直木賞受賞作家 小川哲さんによる、忘れられない酒場にまつわる書き下ろしエッセイをお届けします。

いまも酒場に

 学生時代、下北沢の「12」というバーでバイトをしていた。酒場をバイト先に選んだのは、大学では出会うことのない人たちを知りたかったからだ。実際に、「12」にはいろんな職業の、いろんな年齢の人がやってきた。

 そこで僕は数多くの酒飲みたちを見た。そのときに、年齢や職業に関係なく、「人間は二つの種類に分けることができる」と知った。「飲み会の途中で帰ることができる人間」と「飲み会の途中で帰ることができない人間」だ。

 飲み会の参加者たちが大いに盛り上がり、互いの人生観などが開陳され、酔いも合わさって「私たちは今日、この場所で飲み会をするために生まれてきた」「ここで交わされている会話は世界の真実を解き明かしている」「この飲み会が永遠に続けばいいのに」などという錯覚が生まれる。そんな瞬間に「そろそろ終電なので」などと宣言するのが前者の人間だ。「今日は朝まで楽しもうよ」「まだ話し足りないよ」などという説得も丁重に断り、断固とした決意のもと帰宅する。

 後者の人間は、前者の人間が帰ったあともダラダラと酒を飲み続ける。夜が深くなっていくにつれ、話題も減っていき、同じ話を何回も繰り返すようになる。さっきまでの多幸感が消え、何人かがイビキをかきはじめる。しかし、今さら帰ろうと思ってももう電車が動いていないので、仕方なく始発まで時間を潰すことになる。

 僕自身は後者の人間だ。

 終電前に帰る人、タクシーで帰る人、そんな人たちを数多く見送ってきた。飲み会の途中で帰ることのできない人間だけが残っていくので、最終的にはいつも同じメンバーになる。同じメンバーで同じような話をして、「途中で帰ったやつらは何もわかってない」などとどうしようもない会話をしたりしなかったりして、目をこすりながら帰路につく。翌日は夕方くらいまで寝て、「どうしていいタイミングで帰ることができなかったのか」と後悔する。

 大学で博士課程に残ることを決めたとき、「大学もまた酒場なんだ」と思った。

 学部で卒業して就職する——これは一次会で帰る人たちだ。

 修士課程で卒業して就職する——これは二次会で終電前に帰る人たちだ。

 博士課程まで残る——これは終電を逃し、始発まで酒場に残ることを決めた人たちだ。

 酒場という非日常空間からどんどん人が帰っていく。修士課程は、一般企業に新卒で入社する最後のチャンス——いわば終電だ。博士課程には、飲み会を終えられない人たちが残っている。

 僕にとって小説家として生きることは、酒場の中に残ることと似ている。今でも自分が、終わらない飲み会の中にいるような気がする。自分の日常と向き合うために酒場から去っていった人々に向けて、酔っぱらいの妄言を聴かせているような、そんな感覚を抱きながら、この原稿を書いている。

小川 哲 Satoshi Ogawa (作家)
1986年生まれ、東京大学大学院総合文化研究科博士課程退学。2015年『ユートロニカのこちら側』で作家デビュー。2018年『ゲームの王国』で山本周五郎賞、日本SF大賞、2022年『地図と拳』で直木賞、山田風太郎賞、2023年『君のクイズ』で日本推理作家協会賞〈長編および連作短編集部門〉を受賞。近著に『火星の女王』など。

illustration: tent

 

本作品はウイスキーカルチャーメディア「NORMEL TIMES」の企画「美酒百景」とのコラボレーションエッセイです。

 

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