〈コメから石粒を取り除く「石抜き機」を1961年に発表し、27歳にして億万長者になった雜賀慶二氏(92)。その儲けを独り占めすることはなかった。巨費を投じてつくったのは、発明家や技術開発などを支援する財団法人雑賀技術研究所。1963年に設立されてから、農業や工業、食品などの分野で161件の特許や31件の実用新案(一部雜賀氏個人の特許を含む)、68件の意匠を生み出してきた。
かたや研究者としての雜賀氏が次に取り掛かったのは「無洗米」の開発だ。1991年に成功すると、とぎ洗いをせずに炊けるコメは手間要らずということで急速に普及していった。ただ、開発の本当の狙いは別のところにあった。〉

「ひと山当てたんや」への反発
――石抜き機で大変な成功を納めました。
雜賀 すごい額のお金が懐に入ったので、確かに成功かもしれん。ただ同時に、気に障る噂が立つようにもなった。お袋に「近所の人が『雜賀さんのところはひと山当てた』って褒めてくれてるで」と言われたんですよ。私はそれを聞いて、カチンときた。
近所にはほかにも、「当てた」と言われた人はいました。戦後間もなく、和歌山市街がまだ焼け野原で、みんながバラックに住んでた時分のこと。その人は連れ込み宿、今で言うラブホテルを建てて大儲けしたんやね。それと私の発明は同じ扱いなのかと、ムカムカしたんだわな。
ほかにも不満に思っていることがあった。当時の産業界の常識だと、大企業は外国から先端技術を導入する。中小企業は、ただ大企業の下請けをするだけ。石抜き機でそのパターンから外れた私は、ややこしいやつとして扱われた。
私は、中小企業こそ個性的な技術を開発すべきやないかと思っていた。そうしたら、共感してくれる税理士が現れてね。「財団をつくったらどうか」と言うんです。石抜き機が売れて、特許料が私個人に入って、そこから税金を取られる。それよりは、財団をつくってすべて寄付したらいい。個人の金ではなくなるが、世のためになる使い方ができるからと。
「雜賀さんには、日本の産業界はこうあるべきという思いがあるんでしょう。それを実現する資金として財団のお金を使えますよ」
税理士がこう提案してくれてね。それで発明家の援護と技術開発を目的に1963年、財団法人雑賀技術研究所(現在は一般財団法人)をつくった。
――29歳だった当時から、発明が大事だと考えていたのですか。
雜賀 その思いはいまに至るまでずっとある。日本はあまり資源のない国やから、自前の技術をどんどん開発すべきや。技術導入のために外国詣でなんかせんでも、自分で創意工夫して考えたらええ。解決すべきことは国内にいくらでもあるんやから。
だから発明の意義や価値について啓蒙したい。そして技術が発展するようにしたい。それが財団の設立当初からの柱。
―― 半世紀以上の財団の活動で、とくに印象に残っていることは何ですか。
雜賀 「私たちのくふう展」やね。子どもたちに自分で作った発明や工夫の詰まった作品を応募してもらって、展示、表彰している。次代を担う小中学生に発明と工夫をする楽しさと創作する喜びを体験してもらい、豊かな観察力と創造力を養うのが目的。
1967年に「小学生のくふう展」として初めて開催したときは、2、3点しか応募がなかった。今は数百点は応募があって、だいぶ発展した。2025年秋に57回目を開催したところです。
暗緑黄色の海を眺めて奮い立つ
〈SDGs(持続可能な開発目標)もあって、今でこそ環境への配慮が必要とされている。東洋ライスはいち早く取り組んできた。その端緒は、公害が社会問題になった1970年代に遡る。〉
――「石抜き機」に次ぐ大きな発明に「無洗米」があります。開発のきっかけになったのは旅行だとか。
雜賀 妻の富美代と1956年に婚約して、淡路島に旅行したんですよ。紀淡海峡を船で渡るとき、印象に残ったのはきれいな海。透明度が高くて、かなり深いところでも底まで見通せたんですよ。
それから20年経った1976年、また行ってみようかと、妻と思い立つままにフェリーに乗った。ところが、風景がまったく異なって見える。海に透明感がなく、暗黄緑色なんですよ。岸壁を離れてしばらくは、岸に近いからかと思ったんだけど、紀伊半島と淡路島の中間まで来ても、色は一向に変わらなかった。これはえらいこっちゃと思ったね。
子どものころ、海を描くと水色に塗ってた。でも、これからの子どもたちは海を何色に描くのか。20年というと長く思えるけど、自然界からしたら一瞬のこと。そのわずかな間に海がこんなに変わってしまっては、これからどうなるのかと恐怖を感じた。何とかせなあかん問題だと思ったね。
和歌山市は当時、下水処理施設の整備が遅れてた。中心部を流れる内川は、戦後間もないころであれば、泳いで遊んだくらいきれいだった。それが1970年代になると、川辺を歩けんくらい臭かったんですよ。その汚れが海まで流れて来てたわけです。
――汚れた海を眺めて、奮い立ったわけですね。
雜賀 そう。私は当時、自分でつくった雑賀技術研究所の会長で、とぎ汁の研究もしてた。とぎ洗いは、精米で落とし切れないヌカを家庭で洗い流すんです。
1合から出るとぎ汁は、量が少ないようでスプーン1杯ものヌカを含む。家庭の排水で、リンの量が一番多いのが、とぎ汁ですわ。リンは少量でも海を汚染して、赤潮の原因にもなる。
和歌山市に当時住んでいた40万人が毎日流すとぎ汁の中に、ヌカがどんだけ含まれてるか。ざっと計算したら、大きなダンプカーで山盛り積んだ量にもなった。コメをとぎ洗いするということは、それを毎日、内川に捨ててるようなもん。
ヌカは栄養分が多いから、腐ると臭いし、水底に沈殿してヘドロになる。そんだけ環境を害してるんだと、紀淡海峡を渡って気付かされた。海の汚れの原因はいろいろあるけども、その中に含まれるとぎ汁を何とか出さんようにせなあかん。無洗米を作るしかないなと思ったね。
「氷の天ぷら」をつくるより難しい
雜賀 無洗米っていう言葉は昔からあって、精米機の販売店を営んでた親父から、幼い時分に聞いてた。「コメを生業としてる者にとって、究極の商品は、とがずに炊ける無洗米や。でも、できんから、氷の天ぷらをつくるより難しいって言われてんねん」と。
当時のコメ業界でも、無洗米の開発は、エネルギーなしに動き続ける「永久機関」に挑むのと同じやと言われてた。そんなことに自分のエネルギーを使いたくない。でも、ふと思い出したんや。あの時、親父は無石米をつくるのも、「氷の天ぷらより難しい」と言うてたなと。
――無石米も一緒だったんですか。
雜賀 そう。石抜き機の発明で無石米はできたんやから、無洗米の方もできるんちゃうか。微かな期待から、やってやろうと決心したね。
1934(昭和9)年和歌山県生まれ。中学校卒業後、家業の精米機販売の仕事に就く。1961(昭和36)年、コメの中から石粒を取り除く「石抜撰穀機」を発明。以来、60年以上にわたり、精米機器およびコメやその加工に関する研究など技術発明に従事。その代表的な発明品には「トーヨー味度メーター」「BG無洗米」「金芽米」「金芽ロウカット玄米」などがある
もともととぎ汁は、コメの歩留まりという経済の観点から研究してた。コメは精米の過程でどんどん削って、歩留まりが下がっていく。機械メーカーとして、いかに歩留まりを高めるか、やれることはやってきた。しかし、精米の後に家庭でのとぎ洗いがある。そこでヌカがどんだけ流れてるんやろう。これも歩留まりのうちやと考えた。環境というより経済の問題としてやってたわけ。
当時は産業の成長こそ第一で、環境は二の次だった。経営者仲間に環境の話をすると、だいぶ変な顔されたね。早すぎたのかな。
ヌカでヌカをくっつけるという発想
〈対象物の気持ちになり切って、発明の閃きを得る。幼少のころに身につけ、石抜き機の発明でも役立ったこの方法で、無洗米の開発に乗り出した。〉
――開発に際して、コメの気持ちになり切ったわけですか。
雜賀 うん。無洗米というと、単純に洗って乾かせばいいと思うでしょ。でも、そうすると米粒に細かいひびが入るんですわ。それを炊くと、割れて糊状になって、まともなごはんにならん。
ひび割れすんのは、コメに水が染み込むからや。染み込まんうちにパッと洗って、パッと乾燥させりゃできるんじゃないかという仮説を立ててね。瞬間的にコメを洗って乾かす機械を1978年につくったんですよ。
するとコメはひび割れしてへん。おいしい炊きあがりのごはんになったんですわ。できたって思ったけど、間違いだった。
――なぜですか。
雜賀 汚水処理の方でつまずいた。精米工場から出すとぎ汁は完全にはきれいにできないと分かったんですよ。汚水処理の業者は、「リンは今の技術では浄化しても取れない。法律もそこまで求めてへん。せっかく無洗米ができたんやから、しっかり売ったらええやないか」と言うてくれた。しかし私は、リンが流れるんだったら意味ないと思って、水洗い式の無洗米の販売はやらなかったんですよ。
そこからまたやり直し。10年以上、試行錯誤して、ええ方法ないかと、ずっと考えてた。そうしたら、昔聞いた話を思い出してね。チューインガムがズボンにひっついて取るのに苦労したときに、同じチューインガムをひっつけたら取れるって。これはいけるかもしれんと、コメに応用したんです。
精米したコメの表面には、肌ヌカという非常にねばっこいヌカが残ってる。これを家庭でとぎ洗いして流す代わりに、同じ肌ヌカで取ればいい。
肌ヌカは、粘着性があるから精米の工程で機械にくっつく。しかもヌカ玉という塊になって、コメに混ざると消費者からクレームが来て困るんです。我々は数十年かけて肌ヌカがつかんように工夫してきた。その特性を逆に使えば、肌ヌカどうしでしっかりくっつくわけですよ。そこからは早かったね。
――日常生活での観察が、ものづくりに活きている印象を受けます。
雜賀 そうやね。コメを金属製の筒の中で高速で回すと、金属の壁に肌ヌカだけくっつく。この肌ヌカに別のコメの肌ヌカが次々くっついていく。そうやってできた洗わずに炊けるコメ「BG洗米」を1991年に発表しました。
――名前の由来は。
雜賀 ヌカの英語「Bran(ブラン)」と、削るの「Grind(グラインド)」の頭文字を取ったんですわ。肌ヌカの粘着力で肌ヌカをとったという意味を込めてね。
〈BG無洗米は、とぎ洗いの手間が省けると消費者から支持された。いまやBG無洗米を含む無洗米を、消費者の五割以上が購入している(全国無洗米協会の意識調査による)。家庭だけでなく、外食産業や給食事業者といった業務用での利用も多い。肌ヌカは捨てるのではなく肥料として活かしている。〉
――貴社の商品に「米の精」がありますね。
雜賀 これは、BG無洗米をつくるときの副産物ですわ。コメから取り除いた肌ヌカをすべて有機質資材「米の精」にして、販売しています。「米の精」は微生物にとって格好のエサとなり、土を元気にします。

とぎ汁として流すだけなら、ヘドロや赤潮の原因になってしまう肌ヌカ。それを肥料にすれば、環境汚染を防ぎ、資源の循環が生まれるわけです。
〈ヌカの新たな価値を探求する雜賀氏。その流れのなかで次に開発したのは、あの金メダリストによって一躍有名になったコメだった。〉
〈以下次号〉![]()

くぼた・しんのすけ
1978年福岡県生まれ。2004年日本農業新聞に入社。国内外で農政や農業生産の現場を取材し、フリーに。2024年『対馬の海に沈む』で第22回開高健ノンフィクション賞を受賞する。
提供 東洋ライス株式会社
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