日本シリーズ「巌流島の決闘」で全試合リードオフマン、1試合3盗塁のシリーズ記録
1956年(昭和31年)の日本シリーズ、西鉄ライオンズの相手が三原脩監督にとって宿敵となる水原茂監督率いる読売ジャイアンツということで、「巌流島の決闘」と擬せられた。
「(三原)監督さんと巨人軍との関係はうすうす察しており、絶対に勝つという雰囲気があり非常に盛り上がりました。」
高卒2年目、20歳の玉造さんは第1戦から第6戦まで、全6試合に「1番・センター」で先発出場している。
「初めての日本シリーズで頭真白でよく覚えておりません。」
しかし、西鉄が1勝1敗した後の第3戦で、玉造さんは巨人先発投手の堀内庄から3打数3安打、しかも、捕手の広田順、藤尾茂から3盗塁を決めている。これは日本シリーズ1試合最多盗塁記録であり、いまでも破られていないのだ。
「ベンチから特別な指示はありませんが独自の判断で行いました。」
なんと、名将・三原脩のマジックではなく、3つとも玉造さんの独断で走ったというのだ。
これは貴重な証言だ。
この第3戦の勝利を契機に流れが変わったのか、西鉄が4勝2敗で制した。
そして、1957年の日本シリーズも、西鉄と巨人が相まみえたが、西鉄が4勝1分けでV2。
1958年の日本シリーズも3年連続で西鉄と巨人の決戦となったが、西鉄が3連敗を喫して、巨人が王手を懸けた。だが、その後、西鉄が4連勝して逆転の日本一、3連覇となった。西鉄はエース・稲尾和久が7試合中、6試合に登板、最後は4連投し、地元・福岡の新聞が「神様・仏様・稲尾様」と書き立てた。
このシリーズ第5戦、玉造さんは「初回の守備で、与那嶺(要)さんの打球を追って右翼フェンスに激突、指を挟み負傷した」という。しかし、優勝が決まる第7戦にライトの守備で途中出場し、初めてグラウンドで日本一の歓喜の瞬間を迎えることになる。
「日本一になってとてもうれしかったです。」
玉造さんはその5年後、1963年(昭和38年)の日本シリーズに自身4度目の出場を果たした。全7試合、1番・2番打者としてレフトで先発、フルイニング出場し、第2戦での1試合3安打を含む、29打数9安打、打率.310という成績を残した。
だが、玉造さんの活躍にもかかわらず、西鉄は巨人との4度目の対戦で初めて日本一を逃し、これが最後のシリーズ出場となった。
「稲尾君の全盛期ではなく第7戦まで良く戦ったと思います。」
この世に「稲尾君」と呼べる方がご存命なことが、また胸に迫る。
通算1282安打、レギュラーにもかかわらず31歳で引退の理由は
玉造さんは1964年(昭和39年)、当時プロ野球史上53人目となる通算1000安打を達成した。西鉄ライオンズ生え抜きとしては中西太、豊田泰光、高倉照幸に次ぐ4人目の快挙である。
しかし、プロ13年目の1967年、117試合に出場し、70安打を放っていたにも関わらず、オフに電撃的に現役を引退した。まだ31歳だった。西鉄に「黒い霧事件」発覚の激震が走る2年前のことだった。
一説には、西鉄の球団経営の窮状が影響し、他球団への移籍を打診されたが断ったと言われている。その後、玉造さんは野球の世界からは身を引き、実業家となった。
私はいちばん知りたかったことを尋ねた。
「玉造さんが現役のプロ野球選手を退くにあたり、一つだけ後悔や、やり残したことがあったとすれば、それは何でしょうか?」
「根気を持ち続けることの難しさ」
理由ははっきりとはわからないが、プレイヤーとして続ける「根気」、いまでいうなら「モチベーション」が失せてしまったということだろうか。
私はそう解釈することにした。
最後にライオンズファンに一言、メッセージをお願いした。
「OBの一人として埼玉西武ライオンズが日本一になることを期待いたします。」
たった1行だが、ライオンズOBとしてのプライド、そして、いまでもライオンズのことを思っていることは伝わってきた。
玉造陽二さんは今年8月17日に88歳、米寿を迎える。
私は次に出す手紙で、ぜひお会いしてもっとお話を聞かせていただきたいです、と伝えるつもりだ。
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