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西鉄ライオンズの「曲者の貴公子」玉造陽二さんへの手紙

文春野球コラム2024

2024/05/31
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※こちらは「文春野球学校」の受講生が書いた原稿のなかから、文春野球出場権を獲得したコラムです。

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西鉄ライオンズ「野武士軍団」で唯一ご存命のメンバー

 2023年5月11日、西鉄ライオンズ一筋でプレーした「怪童」中西太さんが逝去された。

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 中西太さんといえば、現役時代は「弾丸ライナー」で1950年代のライオンズ「野武士軍団」の一員、「流線型打線」の中心打者として活躍し、引退後は数々の球団をコーチ、監督として渡り歩き、いまに連なる名打者たちを育成した名伯楽でもあった。

 1950年創設の西鉄の初期のメンバーは鉄腕・稲尾和久さんを始め、「流線型打線」を形成した大下弘さん、仰木彬さん、豊田泰光さん、関口清治さん、高倉照幸さんなど、中西さんより前に相次いで鬼籍に入られた。

 しかし、1950年代の西鉄ライオンズ日本シリーズ3連覇の主力メンバーで唯一、ご存命の方がおられるのである。

 手前味噌ながら我が母校である茨城県立水戸第一高校は1878年(明治11年)に創立され、毎年、東大合格者を10名以上輩出する進学校だが、硬式野球部は「学生野球の父」と呼ばれ、「一球入魂」の言葉を残した飛田穂洲を生み、最近、公立では珍しい「野球推薦」制度を導入したこともあり、2024年センバツ甲子園大会の「21世紀枠」の候補にまで挙げられるようになった。

 ある時、Wikipediaで母校のページの「著名な出身者」を見ると「スポーツ」の欄で、ある名前が目に留まった。

 玉造陽二(元プロ野球選手、西鉄ライオンズ外野手)

 ライオンズ一筋で記録した通算1645試合は1994年に石毛宏典に抜かれるまで27年に渡ってチーム歴代1位(目下、歴代5位)、通算1282安打は、地元・水戸の先輩でもある豊田泰光をわずかに上回り、チーム歴代10位、盗塁数158個は、源田壮亮に抜かれたがチーム歴代11位である。しかし、31歳で電撃的に現役を引退したようだ。

現役時代の玉造陽二さん。1967(昭和42)年3月10日撮影 ©共同通信社

 しかも、Wikipediaを見ると、1936年8月生まれとあり、87歳でご存命だという。

 ぜひお話を伺ってみたい。

 私はかつて、「高校同窓会の名簿」を購入していたことを思い出し、実家の本棚から引っ張り出した。そこには玉造さんの名前、住所、電話番号があった。

 私は藁をもすがる思いで、できるだけ丁重な文面で手紙を書いた。

 自分は玉造さんの高校の後輩で、我が母校の野球部は目下、甲子園出場をうかがうレベルまで強くなっているものの、玉造さんのようにプロ野球選手として活躍された方は例がなく、ぜひ、貴重な野球人生についてお聞かせ願えないかと。

 玉造さんへの手紙を郵便ポストに投函してから1週間後、平日の朝、携帯電話に着信通知があった。私は予感がした。折り返し、電話をかけてみると、

「ああ、手紙を読んだけど、何か質問があるなら紙で送ってくれる?」

 大変、失礼ながら、玉造さんのいささかぶっきらぼうな声に懐かしさを覚えた。

 これぞ「水戸っぽ」のアクセントと話し方である。

 私は質問を練り、再び、玉造さん宛てに手紙を書いた。

 それから2週間ほどして、自宅に一通の封書が届いた。封筒を裏返すと、「玉造陽二」という手書きの署名があった。

 早速、封筒を開けると、私が送った質問の下に鉛筆で直筆のコメントが書かれていた。

 玉造さんは私が用意した質問のすべてに丁寧にお答えをくださったのである。

 残念ながら、現時点で玉造さんとは直接、お会いできていないが、玉造さんから自筆の文字でお答えいただいたものを基に、「仮想インタビュー」ということでお送りしたい。

玉造さんからの返信の手紙 ©宮本優人

「野武士軍団」で「貴公子」、グラウンド内外で「曲者」ぶりを発揮

 茨城県水戸市出身の玉造陽二さんは1952年(昭和27年)に茨城県立水戸第一高校に入学、野球部に入部すると、左投げ左打ちの外野手として活躍、3年生になった1954年(昭和29年)、夏の甲子園に出場、1回戦で中京商(愛知県)と対戦したが、初戦で敗退した(中京商は優勝)。この後、水戸第一は春夏ともに甲子園大会への出場は途絶えている。

 甲子園出場後、玉造さんは西鉄ライオンズの名物スカウトである宇高勲から声をかけられ、入団を決めたという。手紙には、「慶応義塾大学への進学を目指しておりましたが事情があり、プロの道へと進みました」とあった。高校卒業と同時に、故郷の水戸から単身、福岡に赴くことになる。

「(家族や親せき、知人たちなど)大方の皆様からは祝福されましたが、将来の不安もささやかれました。」

 玉造さんがプロ入りする直前、1954年(昭和29年)に西鉄は球団創設初のリーグ優勝を成し遂げており、しかも、監督には三原脩、コーチには大阪タイガースを優勝に導いた石本秀一という球界の重鎮が率いる「野武士軍団」である。

「不安の方がいっぱいで果たしてやっていけるのかどうか全く自信はありませんでした。」

 それでも玉造さんは新人で迎えた1955年(昭和30年)、開幕からベンチ入りを果たし、本拠地・平和台球場での開幕戦、トンボユニオンズ戦に代打で初出場すると、高卒2年目の翌1956年(昭和31年)、外野のレギュラーを掴み、136試合に出場、390打数116安打、打率.297、33打点、1本塁打、18盗塁という好成績を残した。

 ただ、惜しかったのは、「規定打数」にあと10不足していたため、打率ランキング入りを逃したことだ。この年、パ・リーグで打率3割を記録したのは、首位打者で同郷の先輩である豊田泰光、中西太ら4人だけだった(このことに三原脩監督が抗議し、翌年から「規定打席数」に変更になった)。そして、俊足を生かし、1957年にはプロ入りから入団3年目まで、786試合連続で併殺打ゼロという当時のパ・リーグ記録までつくっている。

 玉造さんは、「野武士軍団」と呼ばれた豪傑揃いの西鉄ライオンズにあって、博多っ子たちからはそのルックスから「貴公子」と呼ばれるようになったという。しかも、麻雀が強く、一緒に卓を囲んだ三原監督の役満を安い和了(アガリ)で蹴ってしまったという逸話もあり、入団時の不安が嘘のような度胸を見せていた。

 そして、「曲者の貴公子」玉造さんの真骨頂は日本シリーズで発揮される。

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